ティアラを偲ぶ

ティアラは個性の強い犬だ。付和雷同型の犬が多いなかでガンとして己を 曲げない部分があって、そこが魅力でもあった。いつまでも撫でさせられたときは、 へきえきしないでもなかったが、だからといってへりくだるようなことはしない。悠然と体をあずけている。 突然彼女が我を通し始めると、もうこちらが合わせるしかない。ほかの2頭も我が家の家族も 「姫(我が家でのニックネーム)のおっしゃる通り」に従うしかなかった。

林の中を散歩しているとする。ぽいとあらぬ方向に行く。戻れ、帰れと叫んでもむだ。ほかの2頭があっけにとられている間に好きなだけわき道をいくと いつのまにかこちらの後について歩いている。病を得てからも、家の前のアスファルトの上に座り込んで、通りすがりの人や景色を好きなだけ眺める。他の犬が 通りがかろうが、吠えようが見向きもしないのだ。好きなボールをひとたび取ったら、噛みつかれても、ガンとして離さない。強情ぶりは他の2頭も認めていて、 1、2度ちょっかいをだしてダメなら撤退するようになったほどだ。

ティアラを見ていると、ひたすら子育てに専念してきた昔の日本女性を見る思いがする。「ティアラ母さんご登場」のくだりで書いたが、 ブリーダーのもとに来た、めちゃ高く、血統正しいフラットコーテッドリトリバー犬だから、6度の出産を経験してきた。それが普通なのか多いのか、私には判断できないが、 全国に子孫が散らばっていることだろう。八ヶ岳で出産した子犬の中には寒さで死んだものもいるという。大陸や戦後の日本でも、我が子を栄養失調で死なせた母親がいたから それを彷彿とさせる子育ての記録だ。たくさんの子犬がむさぼった一対の乳房は文字通り「たらちね」(垂乳根)となっていた。黙々と生きたたくましい母親の勲章だ。

昨年(2000年)11月末、3頭を連れて山小舎の上を通る八ヶ岳林道をハイキングしたあとティアラのガンが見つかった。ほぼ同時に歩けなくなった。 右後肢のガンが肺に転移していた。正月を越せるかどうかというニュアンスだった。クリスマスも正月もなく、看病に明け暮れた。くすりの関係で3,4時間ごとに抱えて外に出す。昼も夜もない。 みんな手伝うが、日中や夜中はどうしても家内の手をわずらわすことになる。彼女の疲労が傍目にもはっきりしてきた。それでも、ティアラの残りの生命ある限り、かわいがってあげる、と決心したので、付きっきりだった。

ティアラが食欲をなくすと、つぎつぎと食べるものを考え出した。ヨーグルトや牛乳に始まってはちみつ入りホットケーキ。鶏ガラのスープはかなりながく口にした。 おからのクッキーを喜んで食べたとなると豆腐屋に走った。犬らしくビーフジャーキーだと喜んで食べるときが1週間ほどあった。娘たちは「単なるグルメ犬じゃないの」と冗談をいったほど。それならどれほどよかったか。

年を越した2001年2月に3連休があった。ティアラも小康状態を保っていたので、3ヶ月ぶりに八ヶ岳に行くことにした。故郷を見せたいと思った。 私ども夫婦と犬3頭で出かけた。行ってみるとすごい大雪。人の背丈より高い門柱がほとんど雪に埋まっている。しかも雪はやわらかくて歩くと腰まで沈む。 歩けないティアラをタオルで包み、ビニールシートを橇(そり)がわりにして20メートルほど先の玄関まで運んでいると、ティアラの前の飼い主一家が通りがかった。 ひょっとしたらみえてるかもしれないと思って立ち寄ったのだという。 ティアラは岡山から飛行機で来たが、その前は、この飼い主と、この八ヶ岳でながいこと過ごしていた。冬の寒さも水の冷たさも知っている。雪を見せようと無理してやってきたのも、 それゆえのことだった。まだ半年前のことなので彼女を覚えているようで、しっぽを2,3度振って応えた。これをみて前の飼い主はたまらず、「ごめんね、ごめんね。こんなことになるとは 知らずにごめんね」と大粒の涙をこぼした。

その夜、苦しそうなティアラに深夜までママが付き添った。寝ついたのでストーブをつけっぱなしにして仮眠した。早朝、他の2頭に散歩を催促された私が起きてティアラ の死を知った。ゆかりの地で死んだのだ。もう苦しいことはなにもない。なにかほっとした気持ちもあった。カーテンを開けると、外はマイナス10℃。カラマツと白樺が見事な霧氷になって朝陽に 輝いていた。人間でもこんな荘厳な旅立ちはあるものではない。ティアラよくがんばったな。夏になったら、せせらぎの小径に行って、あの滝つぼで、よくなった肢で思いっきり泳ぎなさい。

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