我が家の愛犬、ゴールデン(Golden Retriever )とフラッティー(Flat-Coated Retriever )がくりひろげる、てんやわんやのいたずら騒動記。 そして、彼らの出自についての一考察。このホームページをつくるきっかけとなったリズの墓もあります。 |
それまでは、エディーの天下だった
チビ黒がやってきたばかりに
ゴールデン・レトリーバーの話
誕生の歴史と風格ある性格 私のタロ・ジロ物語 「ガーデニング」「木の項・ライラック」にあったものをこちらに移設しました。 |
迷惑そうにリズ(右)と散歩するエディー |
リズが初めて我が家に来たのは99年1月。雪の八ヶ岳で週末を過ごしていたのだが、散歩に出かけた我が家のママが、真っ黒な仔犬を抱いて帰ってきた。
途中で出会った方が自分の山荘に招いてくださって、話しているうちに、この犬種に惚れ込んで、外国産を輸入してブリーダーをしているのがわかった。
生まれたばかりの仔犬もいるという。
話の成り行きで、なんとなくいただくことにして家族の了解もないまま抱いてきたというのである。もっとも、反対はないことを確信していたきらいがある。
真っ白な雪の上の真っ黒な仔犬。おもしろいコントラストに夢中になって遊んでいて、家の中にいるエディーの反応など気にもしなかった。うまくいくものと疑わなかったのだが、さて2匹を引き合わしたとたん、エディーが横を向いて吐いたのである。
家族の愛情を一身に集めていたのが、やばいやつが来たおかげで、どうなるかわからないことを本能的に察知したのでは、というのと、いやリズが臭(くさ)いからだ、と意見は2分した。確かにリズは臭かった。生まれたのが寒いときで、しかも高度1800メートルはあるところだけに、マイナス20℃ぐらいになるときもある。下手に洗えば氷づけになる。
洗ったら洗ったで乾かすのが大変な時期だけに一度も入浴したことがなかった。同情すべき点はあるにせよ、娘が「鼻がひんまがる」と表現する強烈な匂いではあった。
吐いたのが、どちらの原因かわからないが、その後もチビが寄ってくると、逃げて部屋の隅から迷惑そうな表情で見つめていた。
不定愁訴状態があまりに続くので獣医に相談したところ「なに、ゴールデンは賢い犬だからすぐ理解して状況を受け入れますよ」といわれた。
エディーとリズに平穏の日が訪れた |
近寄るとうなる、無視する、逃げるという状態は何週間が続いた。黒い仔犬の方は無邪気なもので、嫌われても平気で近寄り、耳をかんだり、足をかんだり狼藉の限りを尽くす。
中でも家族がウヘーと顔をしかめたのは、黒チビがゴールデンのよだれをぺろぺろと舐めとることである。いくらやめさせようとしてもやめない。記録映画で見たが、アフリカでカバかなんかに
寄り添って歯の掃除をするサギの群がいたが、あの共生関係のようだ。
和解は突然成立した。なに、理由は簡単。エサである。仔犬は朝夕の食事を少し残す。エディーはこれがほしくてたまらない。早々に自分のを食べ終えると、黒チビのそばで立ちつくす。
目はわざと素知らぬ方を向いているが、チビ黒が中座しようものならすかさず首を突っ込んで大急ぎで食べてしまうのだ。食器から引き離すのに大力を要すほどの執念である。
このエサにありつくためには仲良くせざるを得ない。慣れと、食欲とが2頭の間に平和協定を成立させたのである。
和解ののちエディーは大概のことでは怒らなくなった。ある日真っ黒なリズが白ひげをはやして現れた。よく見るとエディーのしっぽの毛だ。口いっぱいにほおばってむしり取ったらしい。 長い毛が口の両端からはみ出てひげのように見えるのだ。なにより痛かったろうと思うのだがエディーは黙っている。何か大人(たいじん)の風格を帯びてきた。
【リズを偲ぶ】
悲しみは長く尾をひきましたが、このことが、サイバー上に「リズのお墓」をつくるきっかけとなり、さらには
このホームページ自体をつくることにもなりました。
その後、ゴールデンとフラット(フラッティー)ってどんな犬?と聞かれることが多く、
リズの死から4年後、それぞれの犬種について、知りえたこと、また知ってもらいたいことを書き記すこととしました。
《 その前に、レトリーバー犬について 》
【リズのアルバム】
【愛しき犬たちへ】(伝言板)
狩猟がレトリーバー犬をつくりだした |
レトリーバー(Retriever)とは「回収する」という意味で、主人が銃で撃ち落とした鳥を回収してくるために、この時代イギリスにいたさまざまなタイプの
犬をもとに作り出されました。イギリスは湖沼地帯が多く、遠くに落ちた鳥を人間に代わって拾ってくる犬が必要とされたのです。
水を怖がらず、人が出す「右、左、まっすぐ」などの合図にしたがって水陸を自在に走り、匂いと目で落ちた獲物を探しだします。獲物が濡れたり
痛むので、からだ全体をブルブルさせない(下半身のみ)こともしつけられたようです。水に落ちた獲物は水中にもぐってでも回収し、主人に渡
すまでは決して傷つけないことを要求されました。ラブラドール・レトリーバー、フラットコ−テッド・レトリーバー、ゴールデン・レトリーバーなどはすべ
てこの目的のために改良された犬なのです。
【注】
日本語では「リトリバー」「リトリーバー」「レトリバー」と表記が一定せず、検索のとき混乱しています。「Retriever」の発音からいうと「リトリーヴァー」に近いの
と、目下多数派のようなので、ここでは「レトリーバー」で通します。
ゴールデン・レトリーバーの話
《 ゴールデン・レトリーバー(Golden Retriever )の誕生 》
よほどゴールデンが好きな人だろう。 アメリカのサイトにみかけたタイトル。 |
ダドレー・マーシュバンクス(後のツィードマウス卿)が靴屋のこの若犬を見て気に入り、買い上げました。はるか北部の国スコットランドへ連れて行かれたヌ−は、1868年6月に
ツィード・ウォーター・スパニエルのベル(Bell)との間に3頭の子犬(カウスリップ=Couslip♀、プリムローズ=Primrose♀、クロッカス=Crocus♂)を
産みました。3頭の子犬はマーシュバンクス家の知り合いの犬とも交配されたようです。その後ツイード・ウォーター・スパニエルは絶滅しましたが、3頭
の子犬の子孫は細身のニューファンドランドらと掛け合わされ、長毛のレトリバーが作出されましたが黄金の毛並みは保ち続けました。これがゴールデ
ン・レトリーバー犬の起源とされています。
《 ゴールデン・レトリーバーの血統 》
ゴールド色ばかりがゴールデンではない。 黄色や白っぽいクリーム色も認められている。 |
《 ゴールデン・レトリーバーの性質 》
ゴールデンは付き合うほど愛情が深まる。 |
頭がよく、無類に従順。 我が家のエディー。 |
我が家のエディー(エドワード)を見ていても「この犬は天使の心を持っている」と思わせられます。
世の中に悪意の人間がいるなどとは夢にも思わぬようなので番犬には向きません。そんなセキュリティーがらみは、電子機器とセンサーに
任せておけばいいことです。私は人間の性善説を犬のおかげで信じるようになりました。
いまアニマルセラピーがいわれます。老人ホームや施設を訪問するのにゴールデンが多いのを見ても、ゴールデンは人間の心のケアに
大きな力を発揮します。お年寄りが赤ん坊のような表情で頭をなでています。この犬が癒しの力を持っている証(あか)しです。
子供や赤ん坊のそばに
置いといてもなんの心配もありません。責任感も強く、そばにじっと控えて守り抜いてくれます。学習意欲が
旺盛で、頭もよいので、盲導犬、水難救助犬、すぐれた嗅覚から麻薬捜査犬、アジリティー(犬の障害物競走)
までなんでもこなします。
おとなしく、辛抱強く、明るく開放的で穏やかな性格がゴールデンの特徴です。表情もやさしく豊かです。
仔犬にかまれたり、人間の子供にたたかれてもじっと耐えているくらいで、本気で怒ることはまずありません。
家族からの愛情を強く求め、いつも家族の誰かのそばに伏せの姿勢で控えています。レトリーバーですから
ボールなどには即反応し、取りに走ります。賢くていろんな命令やしつけをすぐ理解します。厳しさで臨むよ
り、ほめたり愛情でしつける方が早道です。
我が家のエディーは
「ごはん」「ミルク」「おやつ」「ダメ(No)」「来い(Come)」「待て(Wait)」など、食べ物や命令に関
する人間の言葉を完全に理解しているばかりでなく、八ヶ岳にいる動物の名前も識別しています。うそではありません。例えば、来客と
話していて「カケスが来た」とか「リスが座っている」とかいう言葉を聞くと、足元で寝ていたエディーがガバッと
立ち上がって、窓際に駆け寄りカケスやリスの姿をさがします。たまたま「ス」という言葉に反応しているだけではないか、
という疑い深い人がいて「ボス(・)が来た」とか「ミス(・)ター長島」と言ってみたのですが、エディーは寝たままです。
エディーは抽象的な言語も理解しているのです。時に犬であることを忘れるほどです。ですか
ら、家内などしばしば耳元でえんえんと話し込んでいるくらいで、その間哲学者のような表情で聞いています。人生
相談の役目もつとめます。
《 ゴールデン・レトリーバーの特徴 》
ゴールデンの こどもの可愛いさと いったら無類だ。 |
この毛並みだから冬には滅法強い(八ヶ岳のエディー)。 |
食欲旺盛ですがすぐ太る体質なので、人間の方が太り過ぎに気を付けてやる必要があります。
近年、人気が高いため欠陥があるまま売るブリーダーもいて、街で股関節異常で腰をもこもこと異常に揺らしながら歩くゴールデンも見かけます。
アレルギー性皮膚炎や目の障害、遺伝的欠陥を持つ犬も生まれているので注意が必要です。こういう犬は一代かぎり飼うのは差し支えありませんが、
繁殖は控えた方がいいでしょう。たとえ血統書があっても。
湖沼を駆け回って、撃ち落した鳥を 回収するために生まれたフラッティー。 |
本来は漁師がこぼしたタラを 集めてくるのが仕事だった。 |
大きいニューファンドランド、セッタ-、シープドッグやスパニエル系のウォータードッグとの多様な犬種との混血です。その中で鳥ではなくニューファンドラ
ンド沖の漁師がタラ漁でこぼれた魚の回収犬として使っていたのがラブラドールと呼ばれました。現代のラブラドールとは、被毛もサイズも構造も異なり
ます。そうした犬はやがてウェイビー・コーテッドと呼ばれるようになり、これが現代のフラットコーテッド・レトリーバーの元になりました。現在のゴールデン
・レトリーバーも当時はフラットコーテッド・レトリーバーと呼ばれていたくらいで、ゴールデンより古くから存在していたのです。
”フラットコーテッド・レトリーバー犬の父”と見なされているのはS.E.シャーリー(Shirley)という人物です。イギリスの富裕な国会議員でもありました。
最初のイギリスのドッグショーは1859年に開催されましたが、このときレトリーバーの分類はありませんでした。
1864年のドッグショーで、狩場番人が所有する2頭の牝が入賞しました。S.E.シャーリーはこの犬種に興味を持ち、求めてエッティングトンにある犬舎で
「オールド・バウンス」(Old Bounce)と「ヤング・バウンス」(Young Bounce)というこの2頭のフラット・コートのメス犬をもとに繁殖を試みました。
フラット・コート犬がどんな犬かというと、それまで存在したセント・ジョンズ・ウォーター犬、ウォーター・スパニエル、そして
スコッチ・コリーそれにセッターがかけ合わせられた犬と見られています。ここで生まれた犬は間もなく「シャーリー・レトリーバー」として知られるようになり
ます。その中でも最も優れた種犬の「ゼルストーン」が、今日ではフラットコーテッド・レトリーバー犬の始まりと見なされています。
また、シャーリーは1873年にケンネル(畜犬)クラブ(1873〜1899年の会長)を設立した人物としても知られています。これ以降、ショーとハンティングの両
方を目的に繁殖されたフラットコーテッド・レトリーバーの血統が固定されていきます。その後この犬種は流行し、多数のブリーダーがその優れた作業能
力とこの犬種のクオリティーとエレガンスを愛し普及に努めました。この犬種の最も著名なパトロン(支持者)はH. レジナルド・クック(H.R.Cooke)という
人で、クックの犬舎「リバーサイド」は6年以上にわたり、ドッグショーの賞を独占しました。また、野外競技会でも数々の勝利を収め「リバーサイド」は
フラットコーテッド・レトリーバーの代名詞になったほどでした。
フラットコーテッド・レトリーバー犬は1915年にAKC(アメリカケンネルクラブ)に初めて登録を認められました。しかし、
この犬種の人気は1918年にはラブラドール・レトリーバーに追いつかれ、1920年代の終わりまでにはゴールデン・レトリーバーにも抜かれました。2回に及ん
だ世界大戦中は危険なレベルまで数が減少しましたが、1960年代にイギリスでブームになり、ついでヨーロッパ及びアメリカでも人気になり復活しました。
《 フラットコーテッド・レトリーバーの特徴 》
フラットは黒いので精悍にみえるせいか、 怖がる人がいるが、実はやさしく陽気だ。 |
《 フラットコーテッド・レトリーバーの性格 》
我が家のアーチャ(アナスタシア)はとりわけ 明朗闊達です。 |
黒い犬は狩猟犬でみな獰猛(どうもう)だと思っている人が結構いるようで、街を散歩していても怖がる人に時々出会います。
とんでもないことで、逆にどんな犬よりも優しさに満ちています。しかも、とことん明るく能天気といってよいくらいです。
繊細とか気難しさなどとは無縁です。人間や犬を見ると誰かれなしにご機嫌でしっぽをパタパタ振って飛んでいこうとします。
相手はみな善人、善犬だと思っているようで番犬には向きません。この点はゴールデンと似ています。
家族に限らず人間が大好きで、しかも甘ったれで常に人の側にいたがります。人の足とソファーの隙間、椅子の下などにもぐり込んで寝そべるのを好みます。
我が家の「アーチャ」(アナスタシア)は4頭目のフラッティーなのですが、彼女だけがみせる行動として、大型犬なのにひざの上に上がって丸くなる
クセがあります。我が家では「ネコ犬」と呼ばれています。大好きなママにだけ見せるようで、家族が真似してひざの上に抱き上げても、もじもじと落ち着かない様子です。
もうひとつ、ママにだけみせるものにストーカー行為があります。足の前後左右にまつわりついて、どこにでも付いていき、風呂にまで入ろうとします。断られると、
出口に座って出てくるまで待っています。
気に入った人を舐める習性があり、一度舐めることを許した相手は覚えていて顔中どころか、鼻の中まで舌を突っ込んできます。
度が過ぎたディープキスで皮膚がかぶれるほどです。これに耐えられるのも我が家ではママだけです。
ムツゴロウ氏によると、最初に遊んでくれた人に見せる特有の親愛のしぐさらしいのですが、我が家では亭主のズボンのすそに噛み付いて、階段もくらいついたまま
横向きについてきます。持ち上げても釣り針にかかった魚よろしく宙づりになったままぶら下がっています。おかげでどのズボンもボロボロです。
寂しがり屋で一人ぼっちが嫌いなので、留守番は苦手です。玄関のドアの鍵が開く音を聞くと、階段を2、3段ずつ飛ばして駆け下り、
1メートルもジャンプして飛びついてきます。夜中トイレに行くとすぐ察知してどこからか飛んできます。誰が散歩担当かよく知っています。散歩の催促にやってきて、
ドアの隙間に鼻を押し付けてクークー鳴くので、朝の担当としては居たたまれません。要望にこたえるうちだんだん早起きになって暗いうちから目が覚めます。散歩中に
明るくなってきます。
余談ですが、日本語のなかで「朝まだき」とか「暮れなずむ」という言葉が好きです。これまで、この朝夕の美しい表現は知識として知っていただけですが、
身体で実感させてくれたのは犬のおかげです。もっとも今では犬たちとのやり取りが英語のせいか「Dawn」(あけぼの、黎明)とか「Twilight」という言葉も浮かびます。
犬の散歩のおかげで、内外ともに美しい言葉があることを再発見したりするのです。
ボールを投げたとたん、もう着地点に向け 一目散に走る。狩猟犬の血が色濃く残る。 |
テーブルの上、ゴミ箱・・・一見何事もないかのように見えるときがあります。でもアーチャが忍び足で逃げ出します。しばらくたって、「あッ、塩ジャケがない!」という時には、当人は
はるか遠くにいます。悪いことをしたという認識はあるようです。
これが食事前だと大変です。逃げっぱなしとはいきません。食欲との綱引きで、食器に近づくべきか、遠ざかるべきか、身をよじって悩んでいて、はたから見ても気の毒なものです。選択肢は食事
をとるしかないのに悩みます。許されると欣喜雀躍、ジャンプして擦り寄ってきます。しかし、翌日になると、塩ジャケがヨーグルトやチョコレートに変わるだけで、
またママの追及の手が迫ります。ほとんど連日の犯行です。叱られてもめげないのには感心します。挫折という言葉を知らない、天性の明るさの持ち主
なのです。
悪いことをしたときの子供は親の目を正視できないものです。「私の目を見て話しなさい!」などといいます。これがそっくりアーチャに当てはまります。叱られているときは
目をそらします。アイコンタクトは犬のしつけで大事なことですが、目が合うと、あわてて顔ごと横向いて二度と目をあわせられない、というほど恐縮しています。なおも「COME!」という
と、びくッと身体を震わせています。このしぐさで、人間の方がほだされて、たいていは許してしまうのです。そのときの喜びようときたら、もう「手の舞い足の踏む所を知らず」というありさまで
仰向けになって、手足をばたつかせながらすり寄ってきます。
レトリーバー犬の本能で物を運ぶのが好きです。下着、靴下、靴、スリッパ・・・匂いがついたものは特に好きで玄関、風呂場からリビングの自分の居
場所までありとあらゆるものを運んできます。その上に寝っころがっています。ボール、木の枝は見ただけで興奮して投げるとすっ飛んで取りに走ります。教えなくてもちゃんと持ってきます。
フラットコーテッド・レトリーバーは鳥や魚などを回収するために改良された犬ですから、水は大好きです。海でも川でも水を見ると入りたがります。水中にもぐることもします。垂れた耳が水圧で耳栓の役目をするのかもしれません。道路の水た
まりでさえわざわざ入りたがります。滝つぼなど少し高さがあるところでも勇躍飛び込みます。泳ぎは教えなくても得意です。
頭がよく、学習意欲が旺盛なのでしつけはラクです。「グッド、グッド」とほめれば調子に乗ってヒョイヒョイとなんでもこなします。
いつも機嫌がよく、子供達とも仲良くなれるので、フラッティーは家庭犬として最適です。 ゴールデンと違い、よだれはたらさないし、
毛の抜ける量はかなり少ないので室内で飼いやすい犬種です。ブラッシングは必要です。
北大植物園前の犬飼教授とタロ =北大植物園のサイトから |
その後タロのことは忘れていましたが、春さきに北大植物園を散歩していると、芝生にぶっ刺した鉄棒から伸びる長さ5メートルほどのロープの先に「タロ」がのんびり寝っ転がっていました。
周囲に人はおらず、だれでも触れる状態です。しかし、真っ黒で精悍な顔つきなので人間の方が敬遠していました。私は毎日馬の世話をしていたので同じ要領で近づき、撫でると、されるままになっていました。剛毛といった感じの硬い毛並みでしたが、折から春先の生え変わりの時期で抜け毛が風に舞っていました。
タロ、ジロが人の心を打ったのは、その無心でしょう。ニュースを知った時は涙が出ました。 1年間捨て置かれたのにしっかり生き残り、戻ってきた隊員たちをうらみもせず尻尾を振って駆け寄ってくる。多くの人の胸を打ったのはこの犬たちの健気さでしょう。その時のことが記録されています。
一号機で飛び、犬たちにファーストコンタクトしたのは第一次の大塚正雄越冬隊員でした。その大塚の証言を第三次越冬隊の深瀬和巳隊員が聞き取って書き残しています(「からふといぬ」犬飼哲夫編所収)。
「確かに気持ちが悪かった。どのように変わっているのかわからないし、第一、生きていたということ自体にまだ不思議な気 がしているのだから。しかし、私はこの前この犬たちと一年間基地で暮したのだし、止むを得なかったからとはいうものの、置 き去りにしていった者の一味には違いない。犬に対してはやはり何かひっかかる感情はあったわけです」
北村泰一隊員に擦り寄るタロとジロ
「お互いにシリごみしているのをみているうちに、やはり私が行ってみることだと思った。たとえ狂暴化していて、腕の一本や 足半分ぐらいくいちぎられても仕方がない。わたしたちが残してきた犬なんだからと、ちかづいてみました」
「ところがどうでしょう。ほえもしないしあとずさりもしない。ちゃんと昔の主人をむかえてくれた。シッポをふる。体をすり寄せて くる」
昭和基地でのタロ(左)とジロ 我が家のフラトコーテッド・リトリーバー犬と似ているので親しみを覚える。 |
北大植物園でのタロ |
南極犬 タロ・ジロ物語
タロ《昭和30年(1955)10月 - 昭和45年(1970)8月11日》とジロ《昭和30年(1955)10月 -昭和35年(1960)7月9日》は日本による初期の南極地域観測隊に同行、犬ぞりの先導犬として活躍した樺太犬(からふといぬ)の兄弟。南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。
昭和31年、南極観測隊に樺太犬による犬ぞりの使用が決定された。当時の北海道には樺太犬は約1,000頭がいたが、このうち犬ぞりに適した犬は40〜50頭程度に過ぎなかった。この中から風連のクマの子として生まれたタロ・ジロ・サブロの3兄弟と父親を含む23頭が集められ、稚内で訓練が行われた。このうちサブロは訓練中に病死する。
第一次南極観測隊は昭和31年11月、総勢53名の第1次南極観測隊隊員とタロ、ジロを含む22頭の樺太犬と共に東京湾より南極観測船「宗谷」(4866トン)で南極へ出発した。宗谷には暑さに弱い樺太犬達の為に、赤道越えの冷房室が特別に用意された。隊員のうち11名が第1次越冬隊として選抜され、この中で菊池徹と最年少の北村泰一が犬かかりを任じられる。
昭和基地に到着すると、病気などでそのまま帰国した3頭を除いた19頭が犬ぞり曳きなどに使役された。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。雌のシロ子はジロなどとの間に8頭の仔を産んだ。
昭和33年2月、宗谷がふたたび南極付近に到着した。昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬する第2次越冬隊を乗せていた。しかし、天候の悪化から宗谷は昭和基地には接近できなかった。帰還する第1次隊員さえ小型雪上機でかろうじて宗谷に帰還する有様で、犬を運ぶ余裕がなかった。 昭和基地の15頭の犬は犬ぞりに首輪で繋がれたままにされた。その後もぎりぎりまで天候の回復を待ったものの、「宗谷」自体が遭難する危険性も出てくるに至り、第2次越冬隊の派遣は断念された。それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。最後の隊員が離れるとき、不穏な空気を察したのか、犬たちは一斉に「ウオ〜ン」とほえたという。
犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。ただ、南極生まれの仔犬とその母犬のシロ子は、母子の分だけ燃料を抜いて重量を減らすという雪上機乗員の機転によって救出され、日本へ帰還することができた。 翌年の昭和34年(1959)1月14日、ふたたび「宗谷」が南極に接近した。最初に偵察に向かった第3次越冬隊のシコルシキー2機編隊が昭和基地上空にたどり着いた時に見たものは、南極に置き去りにしたうちの2頭の犬が飛び出してきた姿だった。ヘリコプターが着陸すると駆け寄ってきて操縦士に飛びついてきたが、大きく成長していて、どの犬だったのか判別がつかなかった。
このため急遽、1次越冬隊で犬かかりだった北村が次の機で基地に向かうことになった。犬達は北村に対しても警戒していたが、頭を撫でながら次々と犬の名を呼び掛けると、1頭はタロの名のところで反応して尻尾を振った。もう1頭もジロの名に反応したことから、この兄弟が生存していたことが確認されたのである。
基地では7頭の犬が首輪に繋がれたまま息絶えており、他の6頭の消息は知れなかった。朝日新聞は仲間を共食いしたのではないかと報じたが、基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと北村は推測している。北村らは3次隊越冬の際、タロとジロが2頭でペンギンを捕獲するところを目撃したという。またこの兄弟は特に首輪抜けが得意だった。
タロとジロの生還は日本中に衝撃と感動とをもたらし、2頭を称える歌が作られ、更に日本動物愛護協会によって、当時開業したばかりの東京タワーに15頭の樺太犬記念像が設置された。
第3次隊にはペットとして樺太犬3頭が同行していたが、第4次越冬隊からは更に11頭の樺太犬が参加することとなった。
昭和35年7月9日、 第4次越冬中にジロが昭和基地で病死した。5歳。一方のタロは昭和36年5月4日午前10時40分、東京の日の出桟橋に接岸した宗谷で帰国をはたした。タロは生後10ヶ月で南極へ渡って第1次から第4次までの南極観測隊に同行してまる4年を南極で過ごし、帰国した時には5歳4ヶ月になっていた。船旅で体重は4kg痩せて42kgとなっていたが、置き去りにされた時にアザラシなどを食べていたためドッグフードは苦手で、牛肉を食べたりと船の中でも贅沢をしていたという。タロはそのまま午後2時には全日空機で札幌へ向かい北大で育ての親の犬飼哲夫農学部教授と対面した。
タロはその後、9年間を札幌市の北海道大学植物園で暮らし、昭和45年8月11日午前7時30分、札幌市北18西9の北大家畜病院で15歳で老衰で死去している。7月29日から入院していたという。
タロは第4次越冬隊と共に、翌年5月4日に4年半振りに日本に帰国し1961年から1970年まで札幌市の北海道大学植物園で飼育されたが、昭和45年(1970)8月11日に老衰のため14歳7か月で死亡した。人間でいえば約80〜90歳という天寿を全うしての大往生であった。死亡後は同園で剥製として展示されている。一方ジロの剥製は東京・上野の国立科学博物館に置かれていたが、極地で病死した状態から剥製にされたこともあって損傷が激しく、簡単に動かすことができなI状態だった。2頭の骨格は北大植物園に保管されている。
昭和57年(1982)、タロとジロの生存劇を描いた「南極物語」という映画が制作され、翌年公開された。このときにはもはや樺太犬が調達できないほど減少していて、南極観測に最も多く用いられたエスキモー犬(アラスカン・マラミュート、シベリアン・ハスキー、サモエド、グリーンランド・ドッグ、カナディアン・エスキモー・ドッグ)で代用されている。
この映画の影響もあり、タロとジロの剥製を一緒にさせてあげようという運動が起こる。これを受けて、昭和63年9月2日から17日間開催された稚内市青少年科学館での「タロ・ジロ里帰り特別展」で、タロとジロの剥製が初めて同じ場所で陳列された。また平成18年7月15日〜9月3日まで上野の国立科学博物館で開催された「ふしぎ大陸南極展2006」でもジロと共に剥製が展示された。現在は再び、北海道大学植物園でタロの剥製が、国立科学博物館でジロの剥製が展示されている。
現在では生態系保護のため、南極に犬など外来の生物を持ち込むことはできない。
生存ニュースが流れてから50年後の2009年1月14日の読売新聞紙上で当時の犬かかり北村泰一・九大名誉教授(77)が当時を回想して「タロとジロは英雄になりましたが、死んだ13頭も忘れられません。首輪のまま力尽きていた犬たちは、氷を割って全員で水葬にしたのですが、暗い海へゆらゆらと沈んでゆくさまに、人も動物も変わらない生命の荘厳を思った」と語っている。
北大に保存されているタロ・ジロの骨格標本などとともにタロの消息を伝える北大広報ビデオがある。
名前 | 出身地 | 年齢 | 備考 |
---|---|---|---|
アカ | 稚内 | 5 | 昭和基地で死亡 |
アンコ | 苫小牧 | 2 | 行方不明 |
クロ | 利尻 | 3.5 | 昭和基地で死亡 |
ゴロ | 稚内 | 2 | 昭和基地で死亡 |
ジャック | 利尻 | 3 | 行方不明 |
シロ | 利尻 | 2 | 行方不明 |
シロ子 | 稚内 | 0.5 | 第1次越冬後、8頭の仔と共に帰国 |
ジロ | 稚内 | 1 | 第4次越冬中に病死 |
タロ | 稚内 | 1 | 第4次越冬後に帰国 |
テツ | 旭川 | 6 | 第1次越冬中に病死 |
デリー | 旭川 | 5 | 行方不明 |
比布のクマ | 比布 | 4.5 | 第1次越冬中に失踪 |
風連のクマ | 風連 | 3 | 行方不明、タロとジロの実父 |
ペス | 利尻 | 4 | 昭和基地で死亡 |
ベック | 利尻 | 3.5 | 第1次越冬中に病死 |
ポチ | 利尻 | 2.5 | 昭和基地で死亡 |
モク | 深川 | 2 | 昭和基地で死亡 |
紋別のクマ | 紋別 | 3 | 昭和基地で死亡 |
リキ | 旭川 | 6 | 行方不明 |
注:年齢は「宗谷」出港時のもの。シロ子のみ雌、他全て雄。
(Wikipedia)リーダー犬だったリキ |
生き残ったタロとジロには驚くが、さらに驚くべきことが起こっていた。タロ・ジロが発見された9年後(1968年)に昭和基地付近の雪の下からもう一頭発見された。置き去りにされた15頭のうち7頭は鎖につながれたまま亡くなり、6頭は行方不明だった。灰色で短毛。特徴から、行方不明6匹のうち「リキ」と思われた。
「リキ」が昭和基地で見つかったということは、鎖を抜け出す知恵を持っていたことを意味する。タロ、ジロ以外にも鎖から離れ、一時は基地周辺で生きていた「第3の犬」が存在したことになる。でも、なぜ餌を求めて狩りに出ることもなく昭和基地にとどまっていたのか。
北村泰一九大名誉教授(2020年撮影) |
越冬隊で犬係を務めてタロ・ジロ2頭とも再会を果たした第1次、第3次越冬隊員の北村泰一九州大名誉教授(1931年生まれ)=福岡市東区=は「第3の生存犬リキ」についてこう推理する。
「リキは最年長の犬で、犬たちのリーダーでした。タロとジロはまだ若く、南極で生き抜く知識や技術をまだ持っていなかった。リキがタロとジロにそうした知識と技術を教えたのではないか。
第1次越冬中、幼かったタロとジロに自分の餌を与え、実の親のように片時も離れず2匹の面倒を見ていた姿が脳裏に焼き付いています。
リキは鎖から逃れた他の5匹の犬と同様、どこにでも行けた。しかし自力では食料を得られそうにない幼いタロとジロを見捨てて逃げることができず、一緒に基地に残ったのではないか。若いタロ、ジロと違い7歳の最年長だったリキは徐々に体力を失い、力尽きてしまったのだろう。リキの犠牲と愛情があったからこそ、タロとジロは生還することができたと思う」