2015年9月  課題:「褒美」


高師直のラブレター

『太平記』が面白い。この時代に関する本を断片的に読んできたが『太平記』そのものは読んでいなかった。昨年4月より岩波文庫で全6冊の刊行が始まったのを機に読み出した。今年の4月に第3冊目が出た。

 この巻では、楠正成、新田義貞の戦死、後醍醐帝の崩御と、ヒーロー達が次々に消えて行く。この巻の最後は塩冶判官讒死事件である。足利家の執事として、幕府内で権威を振るっていた高師直が、やはり足利幕府の武将である塩冶判官貞の美人妻に横恋慕する。当然ながら師直は思いを遂げることが出来ない。それを恨んで、師直は塩冶に謀反の兆しがあると、足利尊氏に讒言し、それがために塩冶は滅ぼされてしまう。この事件を元に、後に竹田出雲は『仮名手本忠臣蔵』を表す。高師直を吉良上野、塩冶判官を浅野内匠頭に見立て、塩冶の家臣大星由良之助が最後に討ち入って師直の首を取るという浄瑠璃と歌舞伎の台本だ。

 このように師直は日本史上でも指折りの悪人と見られている。意外だったのは、その師直が卜部(吉田)兼好に塩冶の妻宛のラブレターの代書を依頼したこと。「度重ならば、情けに弱る心もなどかなかるべき、文をやりて見ばやとて、兼好と云ひける能書の遁世者を喚びよせて」艶書を書かせる。兼好は香を炊き込めた懐紙が黒くなるほどびっしりと書き連ねる。ところが、相手は手にはしたもののその文を開けもしないで庭に捨ててしまう。使いの者はやむなくそれを持って帰る。師直は大いに怒り、「いやいや物の用に立たぬ物は、手書き(能書家のこと)なりけり」といって、兼好の出入りを禁止してしまう。

 この話を耳にした薬師寺公義という歌人が、詩歌になびかぬ人はいないといって、師直に代わって文をしたためる。それは和歌を一首だけ書いたものだった。歌の意味は、返されたとはいえ、あなたの手に触れたかと思うと捨てておくことは出来ません、もう一度差し上げますというもの。女は今度は開けて読み、新古今集の中の一首を書いた返事を返す。心は引かれるが人目がはばかれる、という意味の歌だった。

 師直は大いに喜び、「金作りの団鞘(まるさや)の太刀一振自ら取り出だして」公義に褒美として与えた。「兼好が不運、公義が高運、栄枯一時に地を易(か)へたり」と、『太平記』は記す。

 高校の古文で習う『徒然草』からは、兼好は少し高みから人生訓を垂れる堅物の評論家というイメージが強い。ところが、『徒然草』には「色好み」について書かれた段がかなりある。また兼好は当時の有名歌人でもあった。だから、彼が恋文を作ってもよかったのだ。それが、単なる代書屋として使われたことが兼好の不運であった。

『太平記』は塩冶の妻が「御文をば手に取りながら、あけてだに見給はず」庭に捨てたと記すが、多分チラッとは見たのではないか。そして、びっしりと書き込まれた文に、読む気が起きなかったのではないか。

 殺し文句は短い方がいいのは今も昔も変わらない。

補足
 高師直はその後、尊氏の弟、直義と対立し一族もろとも滅ぼされてしまう。師直は佐々木導誉や土岐頼遠などと並ぶ婆娑羅大名の典型である。公家や天皇といった時の権威をものともせず、奔放に振る舞う彼らの生き方は、痛快である。

2015-09-18 up


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