2015年10月  課題:「デモ」


デモをフォローしてみる

 初めてデモに参加したのは、大学一年の時。原水爆禁止の国会誓願に行った。デモの趣旨は反対する余地のないものだが、大学生になった証しの一つとして参加してみようという気持ちが強かった。参加者は百名にもならない小さな集団だった。議事堂の前で出てきた革新政党の代議士に請願書を渡し、代議士が何か演説したという記憶が残る。この運動はその後成果を上げ、1963年には米英ソで部分核実験禁止条約が結ばれ、大気中での実験は禁止された。さらに2009年にはオバマ大統領が、核兵器のない世界を目指すと明言するまでに至った。

 大学4年生の時はいわゆる60年安保の年で、安保反対の大きなうねりにどこの大学も飲み込まれていった。特に樺美智子さんが国会前で死んだ6月15日前後の1週間は、大学は休校状態で、私たちは全学連傘下で連日抗議行動に参加した。「安保反対!岸を倒せ!」と叫びながら、スクラムを組み激しく蛇行するするジグザグデモ。横に手をつなぎあって、道一杯に行進するフランス式デモ。私の青春の最も高揚した時期であった。

 デモに駆りたてたのは、アメリカの言いなりになって戦争に巻き込まれるのではないかという不安と、岸内閣の強引なやり方への反発であった。特に後者の方が強かった。岸内閣は安保条約承認後、1ヶ月で退陣し、この運動の目的の一つは達成された。だが、日米安全保障条約は現在も残っている。その間に東西冷戦は解消し、60年安保闘争をリードした社会党も、村山首相が日米安保堅持を表明するに至った。

 社会人になってからはメーデーに何回か参加した。参加者には組合から行動費という名目で、なにがしかの金銭が渡された。手弁当でデモに行っていた学生時代との違いに驚いたが、これが組織労働者だと自身を納得させた。デモ行進後、行動費で飲むビールはうまかった。メーデーの目的は働く者の地位向上だが、私の時代は高度成長に合わせて、賃金も上がり、その目的は達成されていった。

 最後のデモは、10年固定の日米安保条約を自動継続するか否かの70年の第2次安保闘争。この時は過激派組織と機動隊の衝突により、デモは大荒れに荒れた。私はたまたま組合支部の書記長をやっていて、組織の一員としてデモや集会に参加したが、私自身にも運動自体にも60年安保の様な高揚感はなかった。私たちのデモは荒れることはなかったが、周りを機動隊が囲み、一般の通行人とは隔離されるようなデモ行進を強制された。この時の運動には「沖縄返還闘争」も含まれていた。沖縄の返還に際し、本土並み、つまり米軍基地の大幅な縮小を求めるものだ。安保闘争には挫折感があったが、沖縄の本土並み復帰という主張に、私は70年安保の新たな意義を見出していた。沖縄は72年に本土復帰したが、米軍基地はそのままであった。結局この運動の目的は二つとも達成されなかった。沖縄は今も重い基地負担にあえいでいる。

 2011年、いわゆるアラブの春では、デモによりエジプト、チュニジアなどの政権が次々倒された。民主的政治制度が未成熟なところでは、デモの力は大きい。だが、日本のように民主的政治制度が一応確立しているところでは、デモだけで主張を通すことは出来ない。デモで盛り上がった力をいかに選挙に結実させるか、それが課題だ。

  2015-10-21 up


エッセイ目次へ