「いいもりやま」と読めば会津・白虎隊。これは「めしもりやま」という、富士山、南アルプス、八ヶ岳を望む、眺望絶佳のハイキングコース。そして、ここの景観か ら「フォッサマグナ」の発想が生まれたのです。 |
飯盛山の登山口、平沢峠からみた八ケ岳の山々 |
八ケ岳の山の名前と標高(写っているものだけ) |
10年以上前の旧聞に属するがNHKのアナウンサーが飯盛山を「めしもりやま」と読んで馬鹿にされた。そのアナが八ヶ岳を知っていれば、こっちの方の話だと開き直れたかもしれない。
たかだか1643メートルの山をなぜ紹介するか、と思うかも知れないが、盆地の中に小さい山があると思えばよい。周囲の展望がいいことは誰もが想像つく。
これが飯盛山で、北に浅間山、西に八ヶ岳、南に南アルプス、東に富士山という360度の展望が開ける場所なのである。
飯盛山ハイキングコース案内板。所要時間も記載されているが ゆっくりで往復2時間。清里へ抜けるなどの方法もある。 |
関東から日帰りでやってくる人が多い。小海線の野辺山駅と清里駅、そして飯盛山はおおよそ三角形をなす位置にあるので、どちらかの駅からスタートする人が多い。標識もきちんとしているが、私の場合さらにショートカットをはかった。前日の天気予報で晴れると知ってから行動に移したものだから、地図もなければ用具もない。
ザイラーバレースキー場の上の方(間違ってはいないが行けない)と聞いて、まずここに駆けつけたものである。事務所で方角違いと教えられ、ほとんどUターンした。
結局わかったのは、まず野辺山スキー場を目指す。スキー場入り口のほんの手前に、左右に走る舗装道路がある。これを右に行く。清里に出る道であるが、カーブをいくつか曲がったところで、獅子岩という場所に出る。
展望台のようになっているが、ここがかなりクルマをおける駐車場。ここから歩き出す。
はじめこそすこし急な坂があるが、あとは草原を行くハイキングコースといった趣だ。それも道理で、尾根まで牧場になっている。出かけた日はたいへんな人出。少し前にNHKで放送されたのでラッシュとなったのだが、かく言う私たちもその口。ただ、聞きかじっただけで出てきたので、先ほどのようにとんでもないところに駆けつけたりする。
風がすこしあって寒いのと、頂上で滑らないか(なにもない禿げ山)が心配なくらいで、らくちん極まりないハイキング。周りの眺望もいうことなし。八ヶ岳の写真を撮るとき、赤岳、横岳、硫黄岳が横一列に並ぶ好アングルは確かにここが一番、と実感した。
帰り道エディー(ゴールデン・レトリーバー犬)が食事をしていた家族連れの車座に飛び込み、大好きなボールと思ったか、ミカンを一つくわえてくるという失態をやらかしたので早々に引き上げたが、往復2時間足らず。
あんまり楽なことばっかり強調したので、「普通の」ハイカーの1例を以下に。
清里駅→平沢登山口→飯盛山→平沢山→平沢峠→野辺山駅。この場合、清里駅を午前8時過ぎスタートして、休憩をとりながら野辺山駅に午後1時すぎに着いている。
「フォッサマグナ」 と 「プレートテクトニクス」
以上のことを書いて10年ほどたってふたたびこの場所を訪れた。この項には、ゴールデンレトリーバー犬のエディーの若く大きく元気な姿が写っている。それを見るのはつらいのだが、彼が死んだ翌年2006年6月4日だった。その時、案内板が新設されていてはじめてこの場所が「フォッサマグナ」ゆかりの地であることを知った。
今では中学で教えるのかもしれないが、日本列島の成り立ちで必ず出てくる言葉が 「フォッサマグナ」だ。高校の時「糸魚川ー静岡構造線」とともにおぼえ、やがて プレートテクトニクス理論(今では確立しているが、当時はこんな理論があるという 程度の教え方だった)で地球の褶曲と断層と隆起について知り、そのスケールの大きなことに 興奮したおぼえがある。駐車場にはナウマン博士の事蹟の説明版がある。正面は南アルプス。 野辺山から清里へ抜ける峠道で小海線より高度にして100メートル ほど上がったところだ。飯盛山ハイキングコースは左。 |
そのフォッサマグナの考え方がこの飯盛山の登山口、平沢峠で生まれたことを初めて知り、数十年 ぶりに当時の興奮を思い出した。この場所には何度か来ているのだが、舗装もなく山肌むき出しの空き地で 案内板など一枚もなかったので気づかなかった。
ほとんどの人は列車なら小海線、クルマなら国道141号を通ってこの山麓にやってくる。ともに平沢峠からかなり離れたところを通っている。今は単なる飯盛山への登山口であり、清里と野辺山を結ぶ近道の小さな峠でしかないが、そのころは幹線だった「佐久往還」がこの場所を通っていたのだと思う。だからナウマン博士一行はこの地を通り、泊まりもしたのだろう。
今では立派な駐車場があり、晴れていれば八ケ岳から南アルプスの絶景を一望できる。この日、朝方の深い霧がさっと晴れて間じかに迫る山並みを見た時はその景観に息を呑んだ。ただ凡人の悲しさで、眺望のよさには感嘆したが、いくら眺めても、日本列島の断層のことまでは思いが及ばなかった。博士のように地質学の素養があって初めてできることだ。平沢峠に水成岩でも見たのかもしれない。
案内板にはこう書かれている。
フォッサマグナ発想の地ー平沢からの眺め日本列島は東西に弓なりに地形が形成されています。そこには大きな溝状の 地質構造が走っていますが、それを『フォッサマグナ』といいます。その命名者が ハインリッヒ・エドムント・ナウマン博士(ドイツ人。1854−1927)です。
ナウマン博士は1875年から3回の旅行を行い、その結果を1885年の論文 「日本群島の構造と起源について」において、「グローセル・グラーベン(大きな溝) として説明し翌1886年に名称を『フォッサマグナ』としました。
第一回の旅行は1875年(明治8年)11月に行われそのとき平沢を訪れたナウマン博士 はここから赤石山脈(南アルプス)を眺めた景色をきっかけに、フォッサマグナを考えました。
晩年のナウマン博士 |
調査は北海道を除く地域で行われ、調査距離は1万kmにもおよんだ。 当時は、等高線のある地形図はなく、あったのは伊能忠敬がつくった海岸線の輪郭 図だけだったから、測量しながら地形図をつくり、地質調査をす るといった大変な仕事だった。今も続けられる野尻湖の湖底発掘で有名なナウ マンゾウの名前は、日本でゾウの化石をはじめて研究した博士の名前に ちなんでつけられている。
それはともかく、博士の紀行文で平沢峠で断層の着想を得た下りにはこうある。
「1875年8月17日、私は日本に到着した。そして11月4日に、初めて内陸の旅行に
出かけた。(中略、東京をたち、高崎−横川−碓氷峠−追分をへて、千曲川を南へ
さかのぼった)その日は11月12日であった。この広くて全く未開の
荒野の果てに、長時間歩いた後、ようやく数軒のみすぼらしい家があった。その家々
の後ろの彼方には、なおかなり険しい山地があって、われわれはそれを越えなければ
ならなかった。およそ1300mの高い峠に着いた時ちょうど、低くたれこめた黒雲の間
から満月が姿を現し、あたり一面に銀の光を注いだ。
右手には雲の上に、雪を満たした谷を抱く八ヶ岳山地の峰々が、月の光に照らされて、 濃い雲に支えられるように、素晴らしくそびえていた。(中略、その夜は平沢の集落に宿泊した) 朝になって驚いたことに、あたりの景色は、前日歩き回ったときと全く一変していた。 それはまるで別世界に置かれたような感じであった。私は幅広い低地に面する縁に 立っていた。その急な斜面は鋭くはっきりとした直線をなして低地へ落ち込んでいた。 その時、私は、自分が著しく奇妙な地形を眼前にしていることを十分意識していた」
このときははっきり断定できるまでには至らなかったが、その後博士は調査と研究をすすめる。
「やがて、それが、島弧を完全に横断して走る溝のような土地であって、そのど真
ん中から多数の火山、なかでも日本最大の火山を生み出している、そういう場所であ
ること、また、その場所において、火山という寄生物を抱えた長大な横断低地が、造
山過程をとおして生じた」という推論にいたる。「この大きな溝は、それは一大横断裂罅(れっか=
岩の裂け目)の地表における明確な軌跡を意味
する可能性があり、それに対して特別な名称をつける値打ちがあるので、地表におけ
る形態をも考慮して、フォッサマグナという名称を提唱したのであった」
フォッサマグナの中央に八ケ岳がある |
ラテン語で、「大きな溝」という意味。ナウマン博士は、1893年の論文で初めて発表した。 博士はフォッサマグナの西縁を糸魚川-静岡構造線、 東縁を直江津-平塚を結ぶ線と考えたが、現在ではもっと東寄りの関東平野も含めて考えられている。
この地域は数百万年前は海だったとされる。原始の日本列島は、現在よりも南北に直線的に位置していたが、 プレートテクトニクス理論(後述)に寄れば、数百万年前、フィリピン海プレートが伊豆半島を伴って(伊豆高原近くの 赤沢はフィリピン海プレートの唯一の地上部とされる)日本列島に接近した時に、列島は現在のように中央で折り曲げ られた。この時、折れ目にできた海に、新生代に砂や泥などが堆積してできたのが、現在の地層だという考え。
このU字溝のような溝の真ん中には、大きな割れ目があって、それを通ってマグマが上昇し、南北の火山列ができた。 フォッサマグナ添いに日本海側から太平洋側へ、妙高山、湯田中温泉、 浅間山、八ヶ岳、富士山、伊豆長岡温泉、湯ヶ島温泉、稲取温泉など火山や温泉が並んでいる理由はこの理論で説明できる。 ここは一方で、日本最大の活断層地帯であり、火山も多く、地震多発地帯でもある。
平成6年(1994年)4月25日に糸魚川市の美山公園にある奴奈川の郷(ぬなかわのさと) に「フォッサマグナミュージアム」が開館、この理論をビジュアルに見せている。説明図などはここからの拝借。
プレートテクトニクス(plate tectonics)理論日本列島では4つもの プレートが折り重なっている |
ちょっとした地震が発生するとテレビに地震予知連の学者が登場して「ここはフィリピン海プレートがユーラシアプレートの下にもぐりこんでいるところで、端っこが跳ね上がったための地震です」などと解説している。今ではプレートテクトニクス理論は完全に定説とされているが、冒頭に書いたように昭和30年代にはひとつの学説でしかなかった。むしろマグマの上昇が原因とされていた。
地球表面は十数個の厚さ約100km程度の固い板状の層(プレート)で覆われていて、それら の層が運動しているという考え。
1912年、ウェゲナーは、諸大陸は約2億年前には1つの超大陸「パンゲア」であり、その後分裂・移動して現在 の分布になったという大陸移動説を提唱した。この理論だと下図のように、現在の大陸の凹凸とぴったり重なること、地震もプレートのぶつかり合いとして説明できることから、今では大方の学者の間で受け入れられている。1960年代には、大陸や海底が移動にあたってほとんど変形しないことが確かめられ、プレートテクトニクスの考えはさらに発展した。これによると、それぞれのプレートは、年に数センチの速さで移動しており、互いに離れたり、 ぶつかったり、ずれ動いたりしており、地震、火山、造山運動などはこのプレート間の相対運動の結果として説明される。
現在の大陸(左)は超大陸「パンゲア」から漂流を始めたとする |
日本周辺では4つのプレートによる激しい地殻変動が繰り返されていて、プレートがもぐり込むところでは跳ね上がって、 大地震になるといわれる。近い将来起こるとされる「東海地震」「南海地震」「東南海地震」などはすべてこの理論から説明 されている。
八ヶ岳伝説
八ヶ岳の形成について科学的な考察が続いたので、今度は伝説の話を。
伝説その1 富士山が八ヶ岳より高いわけ |
むかし富士山と八ケ岳の間で、どちらが高いか論争になり「背比べをしよう」となった。議論の結果、山頂と山頂に樋を渡し、どちらに水が流れるか試してみること となりました。すると水は富士山に流れたそうです。怒った富士山は八ケ岳を長い足で蹴飛ばしましたので、八ケ岳は八つに砕け散って今のようになったというこ とです。
ダイダラボッチという大男の話が各地に伝わっている。関東・中部地方に多い伝承で、天地創造の巨神だ。ダイダラボッチが近江の国の地面を掘ったあとが琵琶湖に なった。その時汚れた手を洗うのに、富士山に腰掛けて駿河湾で洗ったという。『常陸国風土記』や『播磨国風土記』には 、こうした「巨人の国造り」神話が記され ているが、ダイダラボッチは、地方によっては「でいだらぼう」「だらぼっち」と呼ばれるが、八ヶ岳に近い諏訪地方では、「でいらぼっち」という。
伝説その2 八ケ岳と「でいらぼっち」 |
昔々浅間山が噴火を繰り返してどんどん高くなっていきました。それを見たでいらぼっちが、「俺は、みんなが一緒に高くなるよう考えているのにおまえだけ高くな るのは良くない」と、浅間山の土をもっこに詰めて八ケ岳に運んだ。そして富士山と比べて見たが、まだ低い。そこで「八ケ岳よ、浅間山の様におまえも噴火して高 くなれ」と言いました。重たい土を頭に乗せられた八ケ岳は重たくて泣き出しました。
でいらぼっちは怒って八ケ岳を思いっきり蹴飛ばした。それを見ていた妹の蓼科山は「兄さんがかわいそう」とおいおいと泣き出しました。でいらぼっちは「泣 くと諏訪湖に放り込むぞ」と、蓼科山を抱き上げて放り投げようとしましたが、あまりの重さに足が土の中にめり込んでしまいました。その足跡が北八ケ岳の双 子池になりました。
「ボッチ」はアイヌ語で「巨大な高原」という意味だそうだ。峰の最高所、凸型の地点を指すこともある。今も「高ボッチ高原」(長野県岡谷市・塩尻市・松本市に またがる)とか「高ボッチ山」(標高1665メートル)など各地にその名をとどめている。アイヌ民族がこのあたりに先住していたことを物語っている。
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