山で知り合ったお医者さんからタンポポ・ワインを教わった。春には窓から手が届くところにあるタラの芽の
てんぷらで酒が呑める。ジンギスカンは近ごろ山墅の恒例となった。秋になると、林の中にいっぱい落ちているヤマナシの実で果実酒を作らない手はない。
桃ジャムには待ちわびるファンができた。 |
タンポポは雑草扱いされているが、そのタンポポからワインが出来るなんて知らなかった。
珍しいだけでなく、香りもいいし、ワインといって立派に通用する本物を頂戴したのは92年2月のことだった。
八ヶ岳高原海の口自然郷(そのころは西洋海の口自然郷と称していた)の冬はことのほか厳しい。
それでも通年で住んでいる方が何人かいる。
安井さんご夫妻(右の2人) |
日本古来のタンポポ(蒲公英)
は西洋タンポポに次第に駆逐されていることは知っていたが、ヤツガタケタンポポ(写真左)といって、ここだけに生育する種があることは、初めて聞いた。その見分け方などをご教示いた
だいたのだが忘れてしまった。その3つとも私の中ではただ「タンポポ」なのだが、
どれでもワインはできる。
おいしい、というと、手近なノートにすらすらとレシピを英語で残された(写真右)。いつかやってみようと思いつつ年月がたった。
一つには、梅、プラム、ヤマナシなどいろいろな果実酒をつくるのに忙しく、”花”実酒まで手が回らなかったのと、
パラパラはともかく、たくさんの量のタンポポの花を集められなかったためである。
やがて、ご主人が鬼籍に入られたという風の便りに接した。思い立ってある春、残された英文レシピを翻訳しながらタンポポワイン作りに挑戦した。しばらくたっても濁りがとれず、失敗したかと思ったが、秋になって急に澄んできれいなワインが出来ていた。口にすると思い出の
味がした。
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その後、タンポポの和洋種の見分け方を知った。
日本の在来種はカントウタンポポ、カンサイタンポポ、エゾタンポポ、シロバナタンポポ、高山性のものにフタマタタンポポ、ミヤマタンポポ、ヤツガタケタンポポなど10数種類はあるといわれる。
途中の甲府盆地は桃の大産地 |
戦後すぐ、アメリカから横浜大桟橋に着いた「ゴードン号」(いまだに船名を憶えているぐらい鮮明だ.。正確にはウイリアム・ゴードンという将軍の名を冠した
太平洋横断の大型客船だと思う)を、
小学生だった私と父が大阪から、国鉄の名物列車、展望車がついた「つばめ」に乗って出迎えに行った。8,9時間かかった。
山下公園の前にある横浜ニューグランドホテルは、マッカーサー元帥の書斎が今に残るが、戦艦「ミズーリ」での日本の降伏調印式に関係者が
ここから出向き、皇居前の第一生命ビルに移るまで占領軍のGHQ(総司令部)があったところだ。
その親戚とここではじめて会った。親戚といっても紙に系図を書いて説明しないとわからないぐらいだが、日本の
食糧難を聞いて一族を助けるため、この船で夫婦で来日したのだ。ちなみに、その後も何度も来日、一族と交流をもった。
夫人は、2003年はじめ長寿を全うして身罷った。
銀座四丁目の和光(旧服部時計店)がPXだった。 (都電が通っていた昭和37年ごろの写真) |
後年、この親戚はケネディー政権下でホノルル税関長(正式には米国第30何番税関とか番号だった)に任命された。次の大統領にも信任されてそのままだったが、
私たち夫婦がハワイを新婚旅行先に選んだのはそのお礼をいう意味もあった。日系米人も戦時中迫害されたという歴史を持つのに、助けの手を差し伸べてくれた。
その恩義は子供心にも感じていた。
ハワイに行ってみると、我々夫婦は大歓待され、ダイアモンドヘッドにある、米軍の将校クラブにも招かれた。酒のつまみにクッキー
の上に桃ジャムが乗ったのが出ていた。こうして食べるのかと思った。だが1ドル=360円時代で、スーパーで見かけた桃ジャムは
やはり高くてたくさんは買えなかった。結婚祝いにGE製のトースターをもらったくらいで、家電製品にもまだ日米の格差があった。
その後高度経済成長期がやってきて、ハワイに日本人があふれた。私もあの「ゴードン号」より大きな、世界一の豪華客船「QE2」(クイーン・エリザベス2)に乗るためだけにハワイに行ったり、
ゴルフで行くようになった。ホノルルで米国在住の”遠い親戚”たちと何度も食事した。彼らの子供がハワイから最新の日本製通信機器を買いに来日するようにもなった。立場が逆転してきた。
それとともに、桃ジャムもどんどん手近になってきた。
こだわりを知る娘たちはイギリスやフランスでも買って来るようになった。ヨーロッパにもいろんなメーカーのものがあることを知った。
日本でもデパートに見かける時代になった。でも、昔の桃ジャムの方がおいしかったような気がして仕方がなかった。
母が再現を試みた。防腐剤が入っているからではないかと考え、ナチュラルを心掛けて、シーズンには大阪で、八百屋に特別頼んだ桃でたくさん作ったが毎回好評だった。桃が高くて高価なジャムについた。
人様に差し上げる分が多くて、なかなか家に残らなかった。八ヶ岳でも作ったが、桃の産地、山梨がすぐそばで、桃がいいせいか、おいしかった。その母がレシピを残すまもなく亡くなった。
今度は家内が挑戦した。調理場での母の手先を思いだしながら、毎年改良していった。山梨の桃の生産農家と知り合って、完熟前の少し固めの桃(これがよい)を分けてもらえるようになって
味と量が飛躍的に伸びた。待ちわびられるようにもなった。入れるビンが足りなくて佐久のホームセンターで買い占めるくらいになった。
毎年6月から8月末のシーズン(種類によって早生から晩生まであるので)になると私も手伝って作業が始まる。手伝うといってもただ皮をむくだけだが、包丁を伝って、あのときの思い出がかけめぐる。
※ ゴードン号の話
名前だけ覚えていた「ゴードン号」のことはずっと気になっていたのだが、2007年末になって「ゴードン号」というのはアメリカン・プレジデント・ラインの船という
ことがわかった。ヒントは私も籍を置いている日本記者クラブの会報で「・・・プレジデントラインのゴードン号でした。昭和二十七年以降はフルブライトの留学生た
ちも乗せてもらったはずです」という記述を見つけたのだ。この船会社は現在も存在しているので「American President Lines」のホームページにアクセス、過去の置
籍船を探したところ次のような記述に出会った。写真もあった。(わかりやすいように一部に加筆)
「General W. H. Gordon 号」(11,828トン)は第二次世界大戦下の1944年6月ニュージャージー州Kearnyで他の同型船とともに軍用船として建造され、ヨーロッパ 、アフリカ戦線への兵員輸送にあたった。戦後の1946年、アメリカン・プレジデント・ライン(APL)にもう1隻とともにチャーターされ、定期客船として改造されて活躍 の場を太平洋に移し、国民党政権下の上海航路を往復した。まもなく1949年、現在の中国共産党政権に取って代わられたが、このとき上海を出航した最後のアメリカ船 となった。サンフランシスコを母港に再びヨーロッパ航路に就航したが、朝鮮戦争勃発で再び太平洋に移り、韓国への国連軍兵員輸送に当たった。1961年5月、チャーター先のア メリカン・プレジデント・ラインから再度米海軍の所属船に戻り、3インチ砲などを儀装するなどして軍用に改造された上で、ニューヨークとブレーマーハーフェン (西ドイツ)間の輸送の任務に就いた。
サンフランシスコ湾を航行中の
「ゴードン号」(1967)
ベトナム戦争が起こるや、今度は東南アジアに活躍の場を移し、1967年12月から翌年3月の間ピストン輸送にあたり、ベトナム戦最大の戦闘だったテト攻勢の最中にも 大量の物資と兵員輸送を続けた。
アメリカが関わった数多くの戦争に従軍した同船も老朽化で引退、1987年4月から3年間は海運局の艦船係留場に置かれ、1986年3月払い下げられスクラップされた。
私が父と共に大阪から横浜大桟橋に迎えに行った「ゴードン号」は、米海軍からアメリカン・プレジデント・ラインにチャーターされてハワイを経由して米本土と日本、中国を行 き来していた定期客船時代に当たる。小さいながら1967年サンフランシスコ湾に浮かぶ船の写真も掲載されていた。子供心には巨大な船に見えたが、トン数をみると そこそこ大きい。その後、実家と大学の往来時に乗った青函連絡船最大の船だった「十和田丸」が6148トンだから、その倍くらいあり、当時としては小学生の イメージどおりの豪華客船だった。私が乗った最大の船は「クイーン・エリザベス2」(70,327総トン)だが、こちらは「ゴードン号」の7倍もある。
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タラの芽 |
あとでこれがタラの木だと知って、挿し木したが手遅れで枯れた。幸い自然に生えてきて、 敷地に7、8本の我が家専用のタラの芽畑ができている。家内には犬の散歩道や登山口に秘密の採集場所が あるようで、たまに教えると「そこは知っている」などというから、テリトリー内にかなりの彼女専用の 畑があるようだ。
タラの芽はタラの木の新芽のことで、地方により「たらんぼ」とも。「タラ」という字はJIS漢字外でワープロでは表記できないが「木ヘンに怱」の字を書く。ウコ ギ科タラノキ属の落葉低木樹。低木といっても、1年で数十センチ伸び、3bを超えて傘の柄でもないと届かないものもある。成長は早いが10年ほどの寿命で自然に 枯れるものの、木の周辺から次々芽が出るし、こぼれ種で広がる。
日本各地、中国、樺太、シベリアなど東アジアに広く分布していて、林道脇や日当たりの良い山林に生える。樹皮は健胃、強壮、強精作用があり、民間薬と使われ、根皮 もタラ根皮(たらこんぴ)という生薬で、糖尿病に用いられ手いるが、一般には山菜の王様「タラの芽」がねらいだ。
雪が溶けて最初に芽を出すのがタラの芽なので、春の味の第1号というおいしさも加わる。新芽が出る季節は下界では「桜の8分咲きころ」とされ、里の桜がタラの芽の 採取時期の目安だが、高度1760メートルある八ヶ岳の我が山墅では人が集まる5月の連休はつぼみが固くとても食べれたものではない。いったん下山する中旬以降に一気に食べ ごろが来るので時期を合わせるのが難しいのが悩みの種だ。
開きかけの このくらいがおいしいが |
これくらい開いた ものでも大丈夫 |
トゲが多く、開きすぎると痛くて食べるのに躊躇するほどだが、タラの芽には、赤っぽいのと緑っぽいのがあって緑の方がトゲも少なく美味しいそうだ。最近 ではとげが少ないメダラを栽培したものが店頭に並ぶようになった。
和え物はじめいろんな食べ方があるが、てんぷらにとどめをさす。大根おろし入りの天つゆもいいが、揚げたてを、塩か醤油で食べる方が山菜の味がする。ものの本には180℃くらい のやや高温の油で揚げるのがコツ、とある。
上から3番芽まで見えている。 新芽を一つは残すようにする |
近年、タラの芽人気が高く、人が歩くところはあらかた取られていることが多いが、新芽をみなむしりとるものだから枯れている木が多い。無尽蔵に新芽が出るわけで はないので、先端の1番芽と、その下の2番芽程度までとし、あとは次の年のために残すようにするのが大切だ。新芽は前年伸びた枝だけに着く。
タラの木の花 |
葉にまでこんな鋭いトゲが |
大学の運動部に「七帝戦」というのがある。旧帝国大学と称した七つの国立大学の対抗戦だ。
ほとんどのスポーツでこの名前が、今に残る。私立と違って特定のスポーツ目的だけで
学生を入学させられない。つまりどこの部も学生が入学してからはじめる程度だから、レベルが
同じで戦いやすいことが21世紀になっても名前が残っている理由だろう。常時部員が足りない野球部とアイスホッケー部
は夏冬で部員を交換してたぐらいだ。
*現在は「全国7大学総合体育大会」(七大戦)というらしい。2009年で48回を数え、冬季大会、夏季大会にわかれ毎年38競技に約6000人ほどが参加。
馬術部などその典型で、入学してから馬に触ったというのがほとんどだから、国立7大学のレベルは拮抗していた。 今上陛下が馬術部主将をつとめられた学習院にいい馬が残っていて(この世界では”人3馬7”というくらい)強かったが、 あとの私大は似たようなものだった。そのせいか「王決」(学生馬術王座決定戦。現在の「全日本学生馬術大会」)で北大が優勝 するという”事件”もあった。
「七帝戦」は毎年全国持ち回りで大会が開かれ、私も京大と名古屋大の馬場には選手でなく、バケツに氷水を作る係として
参加したことがある。在学中に北大の番がきた。北海道観光がブームでもあり、ポプラ並木横の馬場での試合には、普段より
参加人員が多かった。そうした試合後に出されるのが、ジンギスカン鍋だ。
第2農場のポプラ |
羊というのは背骨に添ってタテに切り落とした半身が1つとして取引される。学生でも
買えるほど安いので、これを下級生が夜っぴてさばいて出すのだが、素人の悲しさ、筋をタテに切るから
とてつもなく固い肉が混じる。試合後、ポプラ並木はずれの牧草地に七輪を並べて車座になって各大学入り混じって
数十人のコンパになる。いくら羽目をはずしても、学内でもさらに隔絶されたはずれだから問題ない。
各大学の放歌高吟となると、北大は当然、寮歌「都ぞ弥生」だ。寮歌の中に「…豊かに稔れる石狩の野に 雁(かりがね)はるばる沈みてゆけば 羊群声なく牧舎に帰り 手稲の嶺(いただき)黄昏(たそがれ)こめぬ…」とあって、一番のヤマ場に歌われている。私がいる頃、羊は北大のキャンパスでは、ごく身近な存在 だった。必修だった体育実習というのは、正門前から市電に乗って2つ3つ先の停留所にあるグラウンドに行くのだが、このあたりには第2農場があり、授業中に数十頭の羊の群れが横断するのが珍しくなかった。 通り過ぎるまで学生は芝生に座って眺めているほかない。学内でもエルムの大木の脇に何頭もの羊がつながれていた。実験用らしく横腹に穴が開けられ、観察用のブリキの缶をつけられているのが多く、気の毒 で仕方がなかった。
「都ぞ彌生」は今では年に一度、北大馬術部東京OB会の新年会で歌うだけとなった。家内も娘も知っているものの歌えない。最近になってYouTubeに流れるようになったので下に紹介するが、我々が歌っているものと かなり違う。楽譜に従うとこうなるのだろうが、慣れ親しんだ応援団の太鼓だと大分テンポが遅くなる。
都ぞ弥生
横山 芳介君 作歌
赤木 顕次君 作曲
都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ) 尽きせぬ奢(おごり)に濃き紅や その春暮れては移らふ色の 夢こそ一時(ひととき)青き繁みに 燃えなん我が胸想ひを載せて 星影冴(さや)かに光れる北を 人の世の 清き国ぞとあこがれぬ |
男性ボーカルのもの。1,2,3番歌唱。 (左端の右向き矢印クリックでスタート) |
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豊かに稔れる石狩の野に |
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加藤登紀子が歌うもの。1,2,5番歌唱。 (左端の右向き矢印クリックでスタート) |
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牧場(まきば)の若草陽炎燃えて |
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朝雲流れて金色(こんじき)に照り |
====================================== ボニージャックスが歌うもの。1,2,3番歌唱。荒(すさ)ぶるのところを間違って歌っている。 (左端の右向き矢印クリックでスタート) |
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*「都ぞ弥生」を始め恵迪寮歌にはこの前口上が述べられる。これを聞かないと気持が入っていかないという人が多いので紹介した。 この前口上は「楡陵謳春賦」と呼ばれ、1936年(昭和11年)に寮歌の『嗚呼茫々の』の序文として当時の学生、宍戸昌夫氏によって 書かれた。「都ぞ弥生」にはいろいろな歌い方があります。この他の動画については、
北大馬術部のホームページの「都ぞ弥生の物語」 で紹介しています。
そんなわけで今でも「ジンギスカン」と聞くと、もう牧草と羊のにおい、ヒツジ連中のあの従順そうな顔つきがよみがえってくる。八ヶ岳に羊はいないが、牧場と牧草が
あって雰囲気があるので、若者が多いときにはこれをやることにしている。最近では孫娘3人もむさぼるように食べてくれるので張り合いがある。羊肉は近在でも手に入る。私は札幌から送ってもらって
いるが、タレも少し探せば百貨店などにあるし、下にレシピを書いたが、自分で作ってもよい。
鍋と七輪がすぐには手に入らないかもしれない。私は浅草の合羽橋商店街で両方手に入れたが、ネット通販で取り寄せることもできるようだ。
蒙古(モンゴル)から来た料理のようだが、純日本式でジンギスカン鍋の名付け親は、
1912年に満州鉄道に入った駒井徳三が名付け親というのが定説だという。東京の料理店「春秋園」が1932年、
庭で成吉思汗料理を出していたという記録があるそうで、すでに戦前からこの名称はあったようだが、北海道ではやったのはその雰囲気
のせいだろう。学生時代出入りした札幌・桑園(と書いたら、2002年11月、馬術部の大場善明先輩から苗穂だと間違いを指摘された。
”苗穂のビール工場の前には5〜6メートル棚に垂れ下がるホップ畑が広がっておりました”とある。その通りです。すみません)
のサッポロビールが経営するビール園は当初からジンギスカン鍋が売り物だった。
欧州ではラム肉が高級食材で、一流料理店のメニューでは上にランクされるが、日本では、牛肉料理の下に位置付けられる。
戦前めん羊は貴重な家畜で、料理に出されたのは、毛がとれなくなる10〜12才まで飼った老廃羊の固い肉だったことがイメージダウンにつながった。
戦前ジンギスカン鍋は不人気だったという。学生時代、私が食べていた羊もこれに近く、固かった。
ちなみに私が、北海道ですき焼きが嫌いになって、その後数年間食べられなくなったのも同じ理由だ。街で牛肉として売られているのは、乳牛のオスの肉
ばかりで、すっかりすき焼きへのイメージが狂ってしまった。
《羊肉について》
現在では羊肉がすばらしくおいしくなった。羊肉はラム(lamb、子羊)とマトン(mutton、生後1年以上の大人の羊、めん羊種が主)に大別され
るが、肉用のサフォーク種のラムやマトンがオーストラリアやニュージーランドから輸入されデパートに並んでいる。しかも牛肉より安い。
羊肉には「味付肉」と「合成スライス肉」がある。炭火焼きや網焼きに
する場合は「味付肉」が向いているが、ジンギスカン鍋の場合は「合成スライス肉」がいい。
「合成スライス肉」とは赤身部分と白身部分の肉を円柱状にして冷凍、これをスライスしたもので、見たところハムと
そっくり。
《食べ方》
・一番おいしく焼けるのは専用のジンギスカン鍋だ。真ん中が兜状になっていて、余分な油や汁が下に落ち、焼き目が美味しそうにつく。
ジンギスカン鍋が無ければホットプレート、フライパンでもいいが、野菜と一緒に焼かないこと。焼くというより煮
る感じになりおいしくない。
・まず鍋のてっぺんに脂身を乗せる。油の塊が無い時はサラダ油でもいい。ついで羊肉を乗せるが、焼きすぎないこと。弱火で焼くと肉汁が無
くなり硬くなるから、強火でさっと焼くのがコツ。赤身が消えたら食べごろ。
・野菜はモヤシ、玉葱、ナス、ピーマン、キャベツ、かぼちゃ、ジャガイモ、生しいたけ・・・お好みのもの。野菜が多くないと肉も多く食べられない。
《タレ》
北海道では各家庭秘伝の味があって、デパートでもタレがたくさん並んでいる。
だいたいのレシピを書くと、以下のようなものか。数人分のタレとして。
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2010年夏、北大馬術部の同期会が40余年ぶりに開かれ、これまた久しぶりにジンギスカン・パーティーとなった。 写真は馬術部のホームページに掲載したジンギスカンの模様だが、そのとき当時の主将でこの会 の幹事をつとめた市川瑞彦君(元北大理学部教授)が「ジンギスカンのたれはいろいろ試みたがこれが一番のお勧めだ」と断言したのが「ソラチのたれ」と いうもの。
ソラチのたれ |
戦後のアメリカ映画にキム・ノバック(Kim Novak)とウィリアム・ホールデン主演の「ピクニック」(原題「Picnic」)がある。 キム・ノバックはミステリー映画「めまい」(原題「Vertigo」)でアルフレッド・ヒチコック監督に見出された美人女優で、 タイロン・パワーとの「愛情物語」(原題「The Eddy Duchin Story」)で流れた多くのピアノ曲を思い出す。 フランク・シナトラと共演した「黄金の腕」(原題「The Man with the Golden Arm」)はアップテンポな曲と ともに斬新なタイトル画面が今も印象的だ。だが、私にとって彼女の代表作は断然「ピクニック」だ。
三度も観たわりにはキム・ノバックの豊満なダンスシーンと挿入歌「Moon Glow」ぐらいしか記憶にない。だが、この映画には今でも時折フラッシュバック でよみがえってくる鮮烈なシーンがある。ピクニックに出かけた先で、キム・ノバックが持参した 籐のバスケットから取り出した大きなローストチキンにホールデンがかぶりつくのだ。このシーンが私にカルチャーショックをもたらした。 大阪・千日前の映画館を出てもよだれと共に鶏の脚がちらついた。
アメリカは何と豊かな国だろう。日本の小学校にもピクニックでなく、遠足があったが海苔巻き寿司が最高の
ごちそうだった。むこうではピクニックにはクルマで出かけ、行った先には横になるような芝生の広場があり、
一人で鶏の脚1本がまるまる食べられる。そしてバスケットの中にはサンドウィッチやサラダがぎっしりだ。その後
何十年にもわたり、私の中で豊かさの象徴が「鶏の脚」になった。長年にわたってこのシーンを自分で再現したいとあこがれてきた。
◇ ◇ ◇
アメリカの「You Tube」を探したら「鶏の脚」のシーンはなかったが、キム・ノバックのグラマラスなダンスシーンがあった。あらすじ
月の第1月曜日“労働の日”の朝早く、カンサス州の小さな田舎町に無一文の風来坊青年ハル(ウィリアム・ホールデン)が学生時代の友人アランを頼って現われた。 その日は年に一度、町中の人々がピクニックに出かける日だった。老女の家でバイトを申し出て庭掃除をはじめる。隣の家はアランの婚約者マッジ(キム・ノバック)とそ の妹ミリー(スーザン・ストラスバーグ)ら女ばかり4人家族。マッジは“ピクニックの女王”に選ばれているほどの美人、ミリーは眼鏡のひがみ屋さんで「どうせ マッジは美人よ!」が口癖だ。ピクニックには、ミリーがハルを、マッジはアランとそれぞれパートナーを組んで出かける。パートナーを交代して踊っているうちにハルとマッジの雰囲気が あやしくなる。この場面、主人公と娘たちがダンスで繰り広げる心理の綾がキム・ノバックのグラマーな姿とともに名シーンとして有名だ。
翌日、借りた車でマッジとデートしたのがアランにばれ、自動車泥棒だと訴えられ、町を出ることになったが、そこには駆け落ちを決意したマッジの姿が。
アカデミー賞美術監督賞および装置賞、編集賞を受賞している。
(右向き矢印クリックでスタート)
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このほか「You Tube」の英語サイトには「愛情物語」のピアノ演奏部分、「黄金の腕」のタイトル部分や音楽などがある。また「めまい」は ヒチコックの作品で最高傑作にランクされ、2007年6月米映画協会(AFI)が10年ぶりに歴代の映画作品ベスト100を選出(映画製作者や俳優、 批評家ら1500人が400本の候補作の中から選ぶ)したが、ここでも9位にランクされている。「You Tube」にはこの映画を13のパートに分けてアップしている ものなど多数ある。上記の原題を検索窓に打ち込むと出てくる。
米映画協会選出名画ベスト102002年11月、曽野綾子がエッセーで、自分がいる日本財団の新人研修では、屋上で一人一羽のニワトリを絞めることをやらせたい、
と書いていた。人は他の命の犠牲の上に生きている事を教えたいという主旨だ。
これを実践した人がいる。脚本家の倉本聰が私財を投じて北海道富良野市に開いた「富良野塾」では塾生の各班に生きたニワトリをあてがい、調理させたそうである。
当然、塾生たちは恐慌をきたし尻込みした。その時、倉本さんが浴びせた言葉が素晴らしい。「絞める、血抜きをし、毛をむしり、ケツから手を入れて内臓を
取り出す。残酷だなんて逃げるな。その作業をいつも誰かがやってくれていたんだ。食うだけ食っといて残酷だなんて言うな。罪の意識にさいなまれたら祈
れ。こういう時のために神様はいるんだ」
戦後の食糧難時代を通じてニワトリ(鶏)は日本人の食生活に、卵も肉も大きな貢献をしてきた。家庭では何羽も飼っていた。
学校帰りに餌のハコベなどを摘んで帰ってくるのは子供の仕事だった。なにか行事があると絞めるのは父の仕事だったが、
何回か首をねじって、もうよかろうと放したらブルンブルンともとに戻って、ニワトリがヨタヨタと後を追った。以来
誰も絞められなくなった。
学生時代、馬術部の周りには何十羽というニワトリが放し飼いになっていた。馬がおとなしいのをいいことに、脚の間にまで入り込んで、
飼料の燕麦のおこぼれをついばんでいた。畜産の学生が飼育3、4週間で1キロいくらかの規定の
体重に持っていくべく、飼料を替えて実験をしていた。ブロイラーという言葉もない頃で、なんでそんな実験が必要なのかわからなかった。
2002年12月、
定年になってからパラグアイに畜産指導に行ったS君から元気にやっているとメールがきた。S君とは、このニワトリを
2羽失敬した仲だ。1羽は鶏肉屋に進呈して、さばいてもらった1羽はS君の洗面器で水炊きで食った。後日、飼育してた学生が大慌てで何番かの番号札の奴を探していた。なにか大事な役割の鶏だったらしいが、腹におさまった後で、ついに言いそびれて今日に至った。
ある日、くだんのニワトリ小屋前に北欧の最新式機械が持ち込まれてきた。畜産学部関係者へのデモンストレーション
だったようで何十人と見守るなか動き始めた。
恐ろしいマシンで、群れを追い込むと首を挟んでちょん切る。逆さまにして血を抜きながら行く先では、
熱湯を噴射して羽をむしり取る。次のコーナーでは、内臓を掻っさばいて、最後はフックに一羽ずつぶらさがって出てくる。
それから何年かしてケンタッキーフライドチキンが日本に上陸してきた。あの研究とかマシンはこういうことのためにあったのか、と合点した。
早速並んだ。私は先に書いたように鶏の足にしか興味がない。一羽で二本しか足がないから皆に当たるわけではないのは分かるが、
なんたらピースと呼ばれて、そこの中にしか足はないという。それでもいいと、求めたが「ピクニック」のあの大きさとは比較にならないほど小さくがっかりした。
「瀬川(せがわ)」のローストチキンを紹介するのがこの項の眼目だった。この店では「むしり」と呼んでいるが、なにローストチキン(roast chicken)である。
日本テレビの「途中下車の旅」を見ていてメモして、その夏に八ケ岳にやってきた人達に出したら、とても好評で我が山小舎の名物料理になった。ただ買ってくるだけのものを料理というのもおこがましいが。
地元の鶏農家と契約して約2ヶ月〜3ヶ月の若鶏のみを仕入れ、塩で下味を付け火力の強いガスオーブンで焼き加減を調節し3、40分焼くのみ。 この店には料理は「むしり」しかない。 840円 である。これにご飯や味噌汁がついた「定食」が1000円ぐらいであるが、頼んだことがないのでよくわからない。
隣にも同じむしりの店があるから、なにか由来があるのかもしれない。いまではほとんど使われない漢字だが「毟」と書く。「つかんで引きぬく」「毛を毟(むし)る」「草を毟(むし)る」「魚などの身をほぐす」というときに使う。そのとおりの食べ方をするが、温かいうちに食べた方が数段おいしい。
瀬川。同じむしりの店が並んでいる。 |
営業時間 10:00〜22:00 定 休 日 不定
《あし》
JR小海線の臼田駅から徒歩10分。
クルマだと、141号を小諸の方に向かう。最近バイパスに付け変わったが、右に臼田の市街に入る旧道がある。左かどに雨宮病院がある。
ここから2本目の十字路を右にはいってすぐ左手。
鮎が好きだ、というと、たいていは友釣りに代表される釣りの方の趣味かと思われる。 何十万円の竿に凝り、何万円の漆塗りのたも(手網)を求め、全国の河川に出没する、 一大文化圏と経済圏を構成しているのは認めるが、私には興味がない。ただ、食べるのが好きなのだ。 マラソンの瀬古利彦選手を育てたことで知られる早稲田の中村清監督は、鮎釣りの最中に飲酒して足を 滑らせて溺死したが、編集局でニュースを聞いたとき真っ先に、どこの川だと社会部記者に聞いたくらいだ。
平野屋 |
母が俳句に打ち込んでいた。山口誓子、橋本多佳子ら有名俳人の門下生、同人でもあった。句作のため関西一円をよく歩いた。京都、奈良には足しげく
通い、中でも嵯峨野は年に一、二度は訪れるところだった。春は桜、秋は紅葉の頃が多かったが、足が痛い母のため、三人兄弟の誰かが荷物持ちとして
吟行に付き添っていた。嵐山から歩き始め、常寂光寺から落柿舎、二尊院を通り祇王寺から化野(あだしの)の念仏寺と、途中
クルマの助けも借りながら、ほぼ一日かけてゆっくり回る。
単なる付き添いだから、それぞれの来歴も知らなかった。
落柿舎(らくししゃ)は、芭蕉の弟子、向井去来の草庵で、ここを訪れた芭蕉が「嵯峨日記」を著した。 庭の柿を売る約束をしたがすべて台風で落ちてしまったのが命名の由来で俳句をたしなむ人にとっては心安らぐ場所だ。
落柿舎
常寂光寺は、小倉山の中ほどにあり藤原定家が小倉百人一首を編んだ時雨亭があった。
山のふもとの二尊院は、法然上人が居を定めたところで本尊に釈迦如 来と阿弥陀如来の二つを祀っていることから、二尊院と呼ばれている。
平家物語によると平清盛は美しい舞の名手、祇王を寵愛していたが、ある日、仏御前の舞に心奪われて祇王を捨てる。無常を感じた祇王が母と妹を連 れて出家したのが祇王寺。
嵯峨の地は京の葬送の地で、当初は風葬が行われていたのだが、弘法大師が化野を訪れて土葬を教えた。のち法然上人がここに念仏道場を作った事から念仏寺と呼ばれるようになった。
平野屋のあたりは秋は紅葉が美しい |
化野の鳥居本(とりいもと)から先、愛宕神社までは愛宕街道と呼ばれる。京の人たちが「愛宕さん」と呼び、火伏せの神さま として信仰を集めるところだ。その入り口といえる鳥居本を過ぎたところに「一の鳥居」があり、そばに二軒の茶店がある。 そのひとつ「平野屋」でいつも床几に腰を下ろす。ここまで来ると日が翳り始めるので、お茶を飲んで おしまいにするのだが、茅葺きの屋根の軒下に「あゆよろし」の提灯がかかっているので、鮎を食べさせる ところと知れた。しかし春か秋深いころばかりに来ていたので鮎は食べたことがなかった。いつか来ようと思っていた。
鮎を食すべく友人を誘って訪れたのは7月の暑い日ざしがあるころだった。案内された場所は、清流に張り出した
大店の旦那然とした人はおなじみとみえて、和服姿の女将も出てきた。洋服は私たち二人だけだ。
江戸時代から三百何十年続く店で、私で14代目ですとか、
昔は京都一円に保津川の鮎を卸してましたといいながら、活きた鮎をすくって調理場に運んでいった。
アユの食べ方 |
鮎が来るまでと手酌でビールを飲んでいたが、いつしか舞妓さんの酌になった。
鮎が来ると、秋刀魚のように食べ始めた我々をみて、「こないしたらよろし」と手伝ってくれた。
始めに皿に並んだそのままの姿を、次に手で少し起こして泳ぐ姿になったのを上から箸で押す。
身がはがれたところで尻尾を落として頭の部分を抜くように引っ張ると、すべての骨がついてきて、皿にはそっくり身だけが残る。
以来この方法を踏襲しているが、熊本・人吉市で球磨川の鮎を食べていたら、「だいぶ食べなれてますね」と
いわれたことがある。姿といい、香味といい、ここの鮎が私の中では二番目においしかった。
2011年2月、鮎の美しい食べ方というので上記の方法をイラストで解説している記事を見つけた(日経新聞)ので右上に 掲載した。鮎の塩焼きは冷めると身が硬くなり、骨がスムーズに抜けにくいもの。骨抜きに失敗した場合でも慌てずに、普通の魚と同様に上身を食べ、 背骨が出てきたらそれを尾のほうからはがして下身を食べればよい。端から一定方向に食べていくのが美しい。身をひっくり返すのは厳禁だ。
和歌山の橋本市から南海高野線の電車1本で来る大阪の南郊に住んでいたので、釣師が紀ノ川の鮎を売りに来る。
父の酒のため、母が炭火で焼くのだが、焼きすぎたり早すぎたりだった。栃木県烏山あたりにゴルフに行った帰り
、那珂川の簗場に寄ったが、少し前に焼いたのを温めなおしたものが出てきて怒りをおぼえた。
伊豆の狩野川は関東で一番早く解禁になるので、季節のスケッチとして新聞の夕刊によく取り上げられる。
望遠レンズで引くので釣師が密集していて、まるで竿がぶつかりあっているように見える写真が多い。
食べたい一心でカメラマンについて行ったが時期が早いせいか、小型でがっかりした。
季節には世話になる鮎小屋 |
我が家と交流がある船山滋生氏の「鮎釣り」。 千曲川下流の東御市に一時お住まいで 作家、水上勉の挿絵を担当されていた。 |
近年鮎漁は不運続きだ。鮎の友釣りは縄張り争いをする習性で成り立っているが、渇水で泳ぎ回るスペースがなくなり身を寄せあってだめ、増水で みな下に流されてだめ、といった具合だ。2002年は伝染病(冷水病=後述)が流行ってほぼ全滅だった。なかなかいい時に出会わないが、そんな時は彼はよその河川にまで釣りに いって、私の分を確保してくれる。河川によって姿(大きさ)がかなり違うことを知った。大きすぎるのもよくない。ほどよい姿というのがある。
ながらく鮎を通じてサイトの亭主の八ケ岳での悦楽を支えてもらった寺嶋さんだが、2020年廃業した。残念無念の一言だ。理由は上でも書いたが、千曲川の荒れがひどくなったことがある。近年、温暖化で雨量が多い時が増えた。このとき、上流の川上村、南牧村の高原野菜の農家の畑から大量の泥水が流れ込む。川が濁り、鮎が食べる苔の上を覆ってしまうので鮎が痩せ、十分に育たない。
また早春、琵琶湖の鮎の稚魚を放すのだが、どうしたことか闘争心がないのが増えた。友釣りに見られるように縄張りを争って追う鮎を針で引っ掛ける釣り方だが、なんと、仲良く同じ瀬で泳いでいる始末だという。加えて高齢化と脳卒中で身体が不自由になり水の中に入れなくなったという事情もあって、ついに断念した。上の写真にある小屋も2021年に撤去された。
鮎の一生
天然鮎の場合、秋にその川の中流域で産卵する。孵化した幼魚は流されて海に出る。
冬の間に海でプランクトンなどを食べて成長して数センチから10センチほどに育った
稚鮎は春から初夏に川を上がり始める。夏に上流の川底の川石に着いたケイソウを食べて成長する。そのために口はチリレンゲのようになっていて、川石から上手にそぎ取る。石にはその痕跡が着いている。初秋に落ち鮎として中流に下って産卵する。この繰り返し。
一方、河川や湖で採取した卵や稚魚を育てて川に放流する「放流鮎」という方法もある。下流での営みをカットして、鮎の一生を中流域で終わらせるわけだ。私が食べている千曲川上流ではもっぱらこの方法。
農水省の統計ではアユの漁獲量は7141トン(05年)。このうち天然アユと放流アユの比率は 2:1ほどだという。しかし、実感としてはこの逆の比率だろう。
生まれた川を上下して終えるのが鮎の一生。(産経新聞060920から) |
冷水病とカワウ
鮎を激減させた原因に冷水病がある。冷水病というのは、低水温期に発病することから名づけられた病気で、もともとは北米のマス類の病気で、低水温期の稚魚に発生し死亡率が高いことから「 bacterial coldwater disease 」と呼ばれている。日本にはなかった病気だが、1990年(平成2年)に東北地方のギンザケから菌が分離され、日本で初めて確認された。アユでは1987年に徳島県で冷水病菌が確認されたのが最初。サケの菌とアユの菌は性質の異なる点があり、由来が異なると考えられている。
細菌のフラボバクテリウム・サイクロフィラムが原因で、かかると体の表面に穴があいたりえらから出血して死ぬ。 96年には全国339養殖場のうち107で確認されたことがある。冷水病対策として神奈川県内水面試験場(相模原市)が稚魚でも飲み込めるカプセルタイプのクスリを開発したという。直径1ミリほどでサラサラしていて餌に混ぜて与えると効果があることが確認され2009年ごろの発売をめざしている。
鮎が激減したもう一つの原因はカワウの繁殖。なにしろ鮎が大好物で胃の中は大半アユだといわれている。70年ごろまでは国内の繁殖地は数か所で。絶滅寸前といわれたのが今では10万羽以上に増えた。アユを大量に放流したことによるというから皮肉だ。
やっと「鮎が上る河川 」への取り組みが始まった
天然鮎が絶滅寸前になった原因だが、国土交通省に100%責任がある。彼らが日本中の川をコンクリートで固めたせいだ。日本の河川管理はコンクリートの護岸や堰に頼るものだった。堰一本あれば、そこから上流には天然鮎はいなくなる。その河川で育ち、自然産卵して稚魚からその川の苔とともにある天然鮎はこれで姿を消した。
この方法では鮎が遡上できないばかりかサケやコイ、フナ、ナマズなど同じように遡上の習性がある魚が”全滅”する。近年になってようやく自然の姿を取り戻すべきだという声が高まり、これを受けて遅ればせながら1997年に河川法が改正された。
従来の、治水と利水一本やりから「河川環境の整備」という一項目が加わった。なんでもないような文言だが役人の世界では画期的、革命的なことなのだ。国土交通省ではたちまち「魚がのぼりやすい川づくり推進モデル事業」として全国31の河川を選定して魚道を緩やかにするなど河川改修を行いはじめた。 その目安として「アユ遡上前線」として現在49河川についてホームページでアユがいつ、どのくらい 遡上したかの情報を流している。大変な効果が現れている。荒川の場合、魚道の改修などによりアユの稚魚の遡上は年間で数千 匹から3万匹だったのが、2003年には22万匹、2006年には数十万匹と急上昇している。
ダメな千曲川すでにあるのかもしれないが、鮎の骨酒(こつざけ)がいけるのではないかと考えている。以前、大町から黒四ダム、室堂を抜けた時、黒部でヤマメの骨酒を振舞われた。 よく焼いたヤマメに熱燗をぶっ掛けただけのものだが、香ばしくてよかったことからの発想だ。もっとも、こちらは鮎より酒の味わい方に属するが。
どこの鮎が一番うまいか
上でおいしい鮎の河川の名前をいろいろ挙げた。でも個人の判定であり主観やその時の雰囲気が大きく左右する。ホントにおいしいアユはどこか。狩野川、長良川、四万十川いろいろ名前が挙がるだろうが、高知では「清流めぐり利き鮎会」というのが毎年開かれ、全国から集めた数千匹の鮎を審査員が食べ比べ、「グランプリ河川」を決めている。
これまでグランプリをとったのは安田川(高知県)、神通川(富山県)、和良川(岐阜県)、宇佐川(山口県)、雫石川(岩手県)だという。雫石以外食べたことがないが、どうやら川で決まるのでなく、その年にいい環境にあった河川の鮎が一番というのが大会関係者の話である。「私のなじみの川の鮎が一番」でいいのである
食の大家、北大路魯山人に、結局のところ鮎は塩焼きに限る、鮎の味を論ずれば行き着くところは故郷自慢になるものだ、という「鮎の食い方」など4編のエッセーがある。
天然鮎と養殖鮎の違い
「これは天然鮎ですから、おいしいんです」とは、よくいわれる言葉だが、もう本当の天然鮎はいないと思ったほうが早い。
幟(のぼり)に天然鮎と書いてある簗場(やなば)があるようなところは特にそうだが、稚魚を琵琶湖などから仕入れて放す、いわゆる「放流アユ」(稚魚放流ともいう)によるものだ。
食べる側からすれば、それを「天然」と認めてもそれほど抵抗はない。だが、スーパーなどに並ぶ、”純然たる”養殖鮎とは明らかに味と身離れに違いがある。
外見で大きく違うのは、尾ビレ、背ビレなどのヒレ。天然ものは大きくてシャープに尖っている。
特に胸ビレ上部にある半月状の黄色い模様(追い星)が鮮明。釣師はこの追い星のはっきりしたものほど
縄張り意識が強いという。
養殖ものはよく肥えて体格は立派でもヒレは小さいのが特徴。
○天然鮎
身の色に少し色がついている感じ。全身にくまなく脂が乗っているためか身にも透明感がある。
食べると川の味(コケの味)、つまり鮎独特の味がする。
○養殖鮎
養殖ものは追い星模様が薄い。体色も濃い緑色がかっている。
身の色は、鯛の身のように白い。焼くと天然ものよりたくさんの脂がしたたり落ち、食感は
ぱさっとしている。川の味はそれほどしない。
私は上述した舞妓さんの箸づかいで見分けている。天然ものは抜く時、頭に全身の骨が付いてくるが、養殖ものは
頭の付け根で切れる。だからといって養殖ものがまずいというほどではない。
アユは「天然」と「養殖」で含まれる栄養成分が大きく違う
アユは、天然物と養殖物で栄養成分が異なる。丸ごと食べることができる魚なので、当然、骨に含まれるカルシウムは多いが、アユの内臓にはウナギに匹敵するビタミンA(レチノール)が含まれ、目の健康を助けたり、感染症を予防する効果がある。
また、血中のLDLコレステロールの酸化を抑制したり、老化防止にも効果があるとされるビタミンEも内臓に多く含まれていて、含有量は魚介類の中で一番。特にビタミンEは養殖アユの方にたくさん含まれている。
天然アユの内臓には大量のビタミンB12と鉄が含まれている。ビタミンB12は、悪性貧血や動脈硬化を予防してくれるビタミンで、光への感受性も高めてくれるため、安眠効果も期待できる。ビタミンAは養殖物の方が4倍多く、ビタミンB12は天然アユの方が6倍多く含まれている。
また、養殖アユは脂の乗りが良く天然アユと比べてエネルギーは高めだ。焼いた場合で比較すると、100グラム当たり天然177キロカロリー、養殖241キロカロリー。内臓だけで比べると100グラム当たり天然194キロカロリー、養殖558キロカロリー。
養殖アユの内臓のエネルギーが高いのは脂肪酸の量の違いが原因。天然アユの内臓焼き(100グラム中3.26ミリグラム)に対して、養殖アユの内臓焼きは、100グラム中16.39ミリグラムで、養殖アユの方が5倍も多く含まれている。
脂肪酸が多いのは悪いことではなく、血液をサラサラにしてくれたり、血中の悪玉コレステロールや中性脂肪を減らす働きがあるエイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)が豊富に含まれている。
鮎の語源
アユは縄文時代から食べられていたことが分かっている。石の錘をつけ底引網のようにして獲っていたようだ。友釣りが文献に出てくるのは江戸時代の元禄時代。鮎の習性に気付くのに長い時間がかかった。ものの名前は地方によってさまざまなものだが、不思議なことに鮎は、古事記から方言がなく、日本中いまに至るも「アユ」だけ。珍しい例だという。
名前は一つだが、鮎の語源については諸説ある。
1 弱弱しいという意味の「脆(あ)ゆる」から。
2 ご馳走の「饗(あ)ゆる」から。
3 美しい、をあらわす「あや」から。
4 川を下る、落ちるの「あゆる」。
5 「ア」は小さい、「ユ」は白いことから。
要するにわからないのである。
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このコーナーでもっと早くキノコを取り上げたかった。「食卓」のタイトルにふさわしいからだ。実際、
敷地のあちこちにキノコが出る。おいしそうだ。ほとんどは食べられることも知っている。でも、躊躇するのはみな例外があるからである。
「タテに割けるキノコは大丈夫」「朽木にはえるのは大丈夫」「傘の裏が網の目のようなキノコはダメ」いろいろ言われる。一面では
あたっているが、決め手にはならない。下記に紹介するリコボウなど傘の裏は網の目で、しかも黄色いからひょっとして・・と迷う
が美味だ。例外の多さが混乱に輪をかける。毎年、新聞にはキノコで食中毒のニュースが現われる。県版を
みると地元の主婦が多い。慣れもあるのだろうが、こういう人でもやられるか、とますます敬遠する。
同じ長野県だが、上高地に毎年出かけていた時期があった。クルマで上がれる最後の週に上高地帝国ホテルに泊まる。「ここで食べる
ミルフィーユは東京の帝国ホテルで出すものより数段おいしい。山のカラッとした気候のせいです」と支配人に言われて、普段食べないケーキを
口にして、翌日、河童橋から明神池を通って岳沢ヒュッテをめざした。
いかにも、前穂高をめざしているように見えるかもしれないが、そんな体力はないから、はじめからヒュッテでビールを飲むのが目的だ。歩くうち登山
よりキノコに夢中になり、ホテルで作ってくれた
おにぎりも食べないで、リュックいっぱいキノコを詰め込んで下りてきた(ホントはいけない)。
上高地帝国ホテルは冬季休業するが、管理のため毎年越冬する人がいる。冬場の野菜がキノコ
みたいなもので、自然にキノコ博士になる。この人に判定してもらった。結果は無残なものだ。大半は毒キノコではなかったが
「死なないが、食べてもうまくない」ものが3分の2を占めていた。
この人が手を出さないものを集めるのに一日を費やしたかとがっかりした。ホテルの冷蔵庫にはぎっしり美味キノコが入っていた。
自分のを捨てて、かわりにご馳走になったもののおいしいこと。
この時キノコの名前を聞いたがみな忘れた。おいしかったものは確か木の上のほうに生えるものだった。以来、そう心がけているが
そんなのまずないといってよい。その後八ヶ岳にこの山小舎を建ててからふたたびキノコが恋しくなった。八ヶ岳高原ロッジの
支配人と立ち話していて「カラマツ林の中には毒キノコはありませんよ」といわれた。後述するがリコボウというのがたくさんある。
ポーチから手の届くところに生えている。味噌汁にしたらめっぽうおいしい。本格的に食べるかと敷地に足を踏み入れたら
見るからに恐ろしいベニテングタケがあたりを睥睨して生えていた。右上の写真のように一見して毒とわかるから手を引っ込めたが、
カラマツ林にも毒キノコはあるのだ。
この支配人はもう現役ではないから言うが、もうひとつでたらめを教えた。私が蛇は嫌いだというと「この辺は高度があるので
ヘビなどいません」という。翌年、彼と立ち話をしたロッジのすぐそばで周回道路を横断中のヘビを見かけた。それどころか、
千ケ滝(軽井沢のが有名だが、清里にもここにもある)近くで犬を遊ばせていたら「このへんは
マムシが出ますから気をつけて」と通りがかりの人に注意された。なんたることか。
キノコの話に戻るが、図鑑を買い込んで判定を試みる人が多い。はっきりいってこれはダメだ。現物と図鑑のカラー写真は色合いや形が微妙に食い違っている。
図鑑のように生えているキノコなどまずない。結局迷って決断が付かないものだ。キノコ博士(村や近所にたいていいるものだ)に聞くのが一番だ。それと、まず死ぬことはないとまで判定したら
加熱で解毒されるキノコが多いから、味噌汁か何かにして果敢に口に入れてみることだ。体験しかないのだ。ただし責任はとれない。自己完結でやってもらいたい。
リコボウ
まず、確信を持ってお勧めできるリコボウから。
我が家では私が決死の覚悟で味噌汁にして口にしたのが最初だ。なんのことはない、その後、このあたりでは有名なキノコで
みんな食べているものだと知った。
敷地を歩けば10個ほどすぐに集められる。それほど多いキノコだ。信州ではどこにでもあるらしく、
季節には国道沿いにある野菜の即売所などにも並んでいるし、ビン詰めもある。
ハナイグチ(リコボウ) |
イグチ科ヌメリイグチ属。傘の径5〜15 センチで赤茶色のナメコと同じ色をしている。また表面もおおなじようにぬめぬめし
ている。傘の裏(管孔)は鮮やかな黄色。
イグチの仲間のほとんどはカサの裏がヒダでなく、スポンジのような網目になっているのが特徴だという。
雨のあと、湿った枯れ落ち葉の下からぬめっと頭を出す。一晩でワッと出るが痛むのも早く、ナメクジや虫に食べられた後
という半分溶けかかったものにも出会う。先に見つけるのがコツだ。
傘の大きい方がおいしいようで地元ではゆでてダイコンおろしと醤油であえたり、みそ汁の具にして食べるのが一般的。
「ナスとリコボウのみそ汁」が最高という人もいる。うどん汁にするといい味がでるとも。油いためにもできる。
イグチ類を料理するときは、消化の悪い管孔をはずし、表皮の取れるものは取るのがいいといわれるが、加熱で差し支えなくなるようで
、信州ではそのまま食べている人が多い。
ハナイグチとヌメリイグチの違い
ヌメリイグチ |
この項、キノコ図鑑と銘うちながら、なんだリコボウひとつかと言われるかもしれない。しかし、言わせてもらえば、なにせ体を張ったルポである。
読む方はいいが、書く方は
それなりの覚悟がいる。山にあるもので食あたりの薬といえるのは正露丸ひとつである。なによりブン屋が新聞の長野県版で(その程度の扱いだろう)
キノコ中毒のニュースになったのでは格好がつかない。そのうちキノコ図鑑の労作が
出来たら別項で「信州食用キノコ一覧」として紹介する予定である。
ササクレヒトヨダケ
どちらかというと最初に食べるとき躊躇する部類だろうが、超美味なのだ。八ヶ岳に多いようで、富士見高原で7年
暮らした詩人の尾崎喜八の日記にこんな記述がある。
○ サヽクレヒトヨダケ試食
昨日は堆肥の馬糞に生えるサゝクレヒトヨダケといふか白色小型の茸を熱湯で煮てからバタいためにし醤油をかけて食うて みた。歯ぎれがよくまづくなかった。比茸は最近栄子の採って持って来た時は蓋のすっかり開き、表面もカンも黒く濡れて溶け かゝってゐるのだ。川村清一博士の「日本菌類図説」で調べてみて、どうもサイギヤウガサといふ菌の腐かれかけたもののや うに思ってゐた。ところが昨日午前エドワード・ステップのNature in the Gordenの下巻を見てゐると堆肥場にある前述の菌の 菌蕾とよく似たものゝ写真が出ている。Lauryer's-wig washroomとxわのださうで、食用に供するともある。それでもう一度念の 為「日本菌類図説」を一枚一枚探ってゆくと淡紫褐色に著彩されたサゝクレヒトヨダケといふのがさうらしく解説を読むと白色の 物を著者は友人の外国人から教へられ食ったと書いてあった。それで上述のやうに自分も試食したが、格別毒はないらしく、 腹はどこもなんともない。たヾ余り充実してゐないし大きくもないので、食べでが無いのが欠点と云えば云える。有毒でないと 極まれば熱湯でうでる(アンリ・ファーヴルは熱湯で処理すればどんな菌でも中毒はないと言ってゐる)にも及ぶまい。第一そ れでないと風味がわからない。
最初に食べるときは、どんなに大丈夫と思っても不安なもので、尾崎喜八も「腹はどこもなんともない」と安堵している。私も
同じ気持ちで、内心翌日まではらはらする。記述ではあのファーブル先生も「どんなキノコも熱湯処理すれば大丈夫」と太鼓判
押してくれているようで大いに意を強くした。日記にもあるように胞子が熟すと液状化する。こうなると食べられない。胞子が
未成熟で溶ける前の幼菌時に食べるキノコ。
ヒトヨタケ科ヒトヨタケ属。ささくれていて、一夜で溶ける(実際は出てから1週間ほど)ことからの名前。形状から「こけし茸」という名も
ある。記述のように確かに馬糞に生えやすいキノコで、八ヶ岳あたりは
軍馬の一大産地だったからその名残りで菌が多いのか堆肥近くによく生える。傘は淡灰色で淡黄土色のささくれ状の鱗片で
覆われる。ひだは、白色→淡紅色→黒色と変化する。
よく似るヒトヨタケ。 こちらも食用になる。 |
コプリーヌの名で 欧米でも人気の ササクレヒトヨダケ |
以上は昨年書いたことだが、2004年3月になって、かつて私が在籍した北大馬術部の後輩にあたる瀧澤南海雄氏が
「キノコ博士」であることがわかった。理学部生物学科を出てキノコの栽培と品種改良を担当していたという。さっそく
札幌在住の瀧澤氏に相談したところ「HPを拝見しました。キノコの話で、少々気になったことをお伝えします」とメールが返ってきた。
上記の記述、つまり尾崎喜八が書いていることも、私が聞きかじったことも、間違っているようなのだ。あわててその文面を紹介することにした。
『まず、茹でて毒が消えるキノコは少数派だと言うことです。ヨーロッパではシャグマアミガサタケが市場に出るようですが、 このキノコは茹でこぼしてから調理することが鉄則となっています(生食すると溶血性の毒で死亡)。
日本でもナラタケの仲間は、加熱不十分で食べると消化器系の中毒をおこしますが十分に熱を加えると無害です。一方、、食
べると死ぬ可能性の高いドクツルタケやシロタマゴテングタケ、コレラタケなどの毒は、熱分解しないので、茹でても毒性は
消えません。
アルコールとともに摂ると悪酔いするキノコとして、ヒトヨタケとササクレヒトヨタケが紹介されていますが、ササクレには
毒性がありません。
アルコールと相性の悪いキノコで有名なのは、秋、カラマツ林に生えるホテイシメジです。傘は杯状で、柄の根元が大きく膨
らんだ(布袋様の腹のように)キノコで、灰色の地味な色のキノコですが、アルコールを飲んだ後に食べても、食べてからア
ルコールを飲んでも、キノコの成分が体内でアルコールと出会うと、強烈な二日酔い状態になります。ただし、この手の中毒は
生命に支障がないので、一度経験してみるのも一興かと。
日本には、生命に関わる毒キノコは4〜5種、生命に支障がない毒キノコが40種程度、食用になるキノコが400種ほどですか
ら、食べられるキノコを覚えるより、食べてはいけないキノコを覚える方が、手っ取り早いといえます。
ともかく、生命に関わる4〜5種は、しっかりと頭に入れて、突撃してください。』
そんなわけで、とりあえずメールを紹介、後日問題点を整理して改訂版を出すこととします。
八ヶ岳の春といっても、ここの歳時記ではゴールデンウイークの直前くらいになる。というのも敷地の周りから雪が消えるのが、
年によって前後するが、だいたい4月20日前後なのだ。それまではただ寒さとの闘いに明け暮れていて、春の実感とは程遠い
。そのころ、家内や下の娘が盛んに「行者ニンニクないかしら」と八ヶ岳周辺の市場や露店を覗き込むようになる。テレビのワイドショーで
仕入れた知識らしく、もっぱら効能の方にばかり目がいくようだ。
ギョウジャニンニク |
やられるのはGW前後だ。この時期の八ケ岳は雪が融けたばかりの状態で食料になりそうなものは他にないから当然のことだが、こちらとしても手をこまぬいているわけにいかない。少々早くても大急ぎで食べるようにしている。そうしたらギョウジャニンニクとそっくりの若葉で死者が出たというニュースに出くわしてびっくりした。八ケ岳にはイヌサフランの球根は植えてないので大丈夫だが、動物には「死亡事故」などない。大変なセンサーを持っているものだと自然の摂理に感心するばかりだ。ギョウジャニンニクをめぐって春先の先陣争いはこれからも続くのだろうが、近くにいるだけにこの勝負どうしても敵さんに利がある。
ギョウジャニンニクは行者が食べるニンニク(大蒜)の意味で、奈良県以北、本州では1500メートル以上の高山に育ち、北海道、千島列島、カラフト、
カムチャツカ、東シベリアに分布するユリ科ネギ属の植物。タマネギ、ニンニク、ニラ、ラッキョウなどと同じ属だ。
北海道ではアイヌがよく食べたところから「アイヌネギ」とか「エゾネギ」あるいは「キトビル」「ヒトビロ」などの呼び名がある。
スズランなどと似ていて顔を出すのも同じ時期だが、地際の薄皮が赤いのが特徴なのでここで見分ける。
「深山や北地に生える多年草で、鱗形は円筒形をして長さ4〜7センチ、古い葉鞘の基部がシュロ状となっている。
花茎は高さ40〜70センチ、下部に葉を2〜3枚つけ、葉は平たく、長楕円形で長さ20〜30センチ、下部は葉鞘となり、総苞片は2、3枚で長さ約2センチ
、白膜質。花柄は長さ12センチ」 と図鑑にあるが、そんなところは我が家の女性はじめ誰も興味はなかろう。
「新鮮な葉にはビタミンCが100グラムあたり60ミリグラムも含まれ、ビタミンAも豊富。癌や動脈硬化、脳梗塞などの生活
習慣病(成人病)の予防や疲労回復など様々な薬効がある」というくだりが問題なのだ。テレビもこのあたりを吹聴するようで、含まれ
る硫化アリルという物質が内臓脂肪を燃やし、血液の酸化を防いでサラサラにするとある。硫化アリルとは、私は始めて聞く
物質だが、このほか、カロチン、食物繊維もたっぷり、とまるで万能薬の扱い。おかげで放映直後はあちこちで売り切れ
るほどの人気。私は薬効を証明する知識は持ち合わせていないが、食べておいしい
のは保証する。北海道中心に、年間通じて出荷する「野菜」として取り組むところも増えているようだ。
このブームの仕掛け人がいる。北海道新聞の記事で見つけたのだが、ギョウジャニンニクの成分を独自に分析、その特徴
と効用を明らかにして「行者ニンニクの凄い薬効」(朝日ソノラマ)「驚異の薬効とその秘密ギョウジャニンニクと北の健康野草」(北海道新聞社)などの
著書を出版した北海道東海大学教授の西村弘行さんだという。
名古屋大学大学院から北大農学部の助手として札幌に赴任したとき、叔父の知り合いだったアイヌ民族の研究で有名な 故・更科源蔵氏を訪ねたところ、アイヌが食用として重宝する「プクサ・キト・フライキナ」という野草のことを話してくれた。当時タマネギのにおいの成分などを研 究していたので、調べてこれがギョウジャニンニクというものであることを知った。これを採取し、ギョウジャニンニク入りのぎょうざ 5千個をつくり6月の北大祭の模擬店に出したところ大繁盛、近所の主婦がぎょうざを買って帰るほどだった。 氏が北海道東海大学に転出してからもその伝統は受け継がれ、北大祭では毎年、農学部前にギョウジャニンニクぎょうざの模擬店が出される。
と記事にある。 更科源蔵氏は私が北大の学生の時まだご存命で新聞の文化欄やエッセイの常連だったからよくおぼえている。
花をつけているのは十年もの。 |
【 食べ方 】
切り口を空気にさらすと中の成分が酸化されニンニク臭が増してしまうので、なるべく早く食べるのがよい。
若芽と葉はさっとゆでて、おひたし、あえもの、酢のもに。生のまま汁の実、天ぷらなど。鱗茎は生のまま味噌をつけて
かじっても焼いてもおいしい。おろし金ですりおろして、醤油に落として刺し身の付け醤油にする人もいるようだ。
その他、葉、鱗茎などをいれた野菜炒め、卵とじにするの方法もある。
蕾はゆでて酢の物に、生のまま天ぷらにと「ウド」に負けず劣らずの春の食べ方がある。
「『八ヶ岳の食卓』に赤ジソ(紫蘇)ジュースと梅みそ(味噌)ドレッシングを入れて」と家内にいわれた。
近ごろよく飲んでいる赤いジュースがシソのジュースであること、サラダによくかけているのが梅から
出来ているものであることを初めて知った。
このあたりを通りがかった人や周辺に土地勘がある人はご存知だろうが、数年前からJR野辺山駅近くの国道141号線
沿いに「びっくり市」という野菜の安売り店が出来た。高原野菜の本場でありながら一番近い農協の売店にしなびた
キャベツやレタスが並ぶ現状だったので、鮮度と安さではるかに上回るこの店に客が流れた。一度でおぼえる
ネーミングもあり近在の人や
通りがかりの観光バスの客が買い占めて行く。山梨の青果市場で買い付けるほか、八ヶ岳あたりでもじかに仕入れるようで
旬のものも多く出まわる。
5月の連休前後からだろうか、ここに各地の青梅と赤ジソがどっと出てくる。梅酒用や梅干用なのだがとにかく安い。家内はこれを
使って何か出来ないか考えていたところに、日本古来の食物に詳しい人に教えられたかしてこの2つのレシピにたどり着いたようだ。
どちらもおいしいことは私と娘が請け合う。家内が口頭で説明したレシピを以下に紹介するが、ほかのつくり方もあるようで、臨機応変に
にやってください。驚いたことに「梅みそドレッシング(健康ドレッシング) 300ml 525円 」という通販サイトも見かけた。この際
自分で作るにこしたことはない。
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シソは有用な植物
シソは紫蘇と書くが、「蘇」には元気をよみがえらせるという意味があるようにたいへん有用な植物なのだ。赤ジソと青ジソがあり、赤ジソは6−7月の季節野菜の扱いで、葉と実の部分(穂ジソ)が梅干の色付けに使われる。青ジソは葉を刺身のつまや薬味にするためハウス栽培が行われているので年中出回っている。青ジソのことを「大葉」と呼ぶのは中部地方から東日本の日本海側と近畿地方の22府県、単に「シソ」と呼ぶのは29都府県だという。(読売新聞)
品種としては、それぞれに葉が縮れる『ちりめん青』『ちりめん赤』があり、実ジソ用には『うら赤』という品種が適している。庭の隅っこで毎年こぼれ種から芽を出すほどで丈夫ではあるが、本来乾燥を嫌い、交雑で劣化しやすいから種子は新しく購入したほうがよい。
薬用には赤ジソが使われる。漢方では葉を局方蘇葉(そよう)といい、感冒、頭痛、嘔吐などに効用がある。 種子を蘇子(そし)といい鎮咳去痰に、茎を紫蘇梗(しそこう)といい食欲不振、消化不良に用いられる。赤ジソの花穂は刺身のつまに、実はしば漬けや佃煮にするなど余すところなく使われる。
葉の精油中に含まれるシソ糖(perillartine)は甘みが強くショ糖の2000倍もある。シソアルデヒド(perillaldehyde)には抗菌、防腐効果が顕著だ。最近の研究で、シソ葉の含有成分であるフラボノイドのルテオリン(luteolin)が強い抗アレルギー作用を示すことがわかってきた。
正月を八ヶ岳で過ごすのを楽しみにしている。居場所は標高1760メートルあるから、キーンというような身を貫く厳寒は緊張感を、脳天を突き刺す 冷涼の空気は新年に清潔感をもたらす。ここではたいして人にも会わないから、人間(じんかん)意識することもない。晴れていようが雪が降ってい ようが、新年がこの地から、この我が身の周りから始まるような清涼さを味わう。
関西風の白味噌雑煮 |
丸餅はどこでも手に入るが必須の関西風の白味噌がない。なにしろ周りは名だたる信州味噌の本場である。年末の買出しで近在のスーパーなどに行ってみると塩分の強弱、大豆の選別、発酵方法などいろいろ製法を競っているのが店頭に並ぶが、「白味噌」がない。見事にないのだ。関西とりわけ京都ではどうして「白味噌雑煮」になったのか知らないし、知りたくもない。例え、文化的にこちらが上だと言われても嫌なものは嫌だ。
雑煮の白味噌文化とお澄まし文化マップ(サイト「お雑煮をめぐる物語」から) (クリックで大きなサイズに) |
納豆文化だ |
同じ関西出身の夫婦でどうしてこんなに舌が違うのかというと、私の母は山形県米沢出身で家族の舌は関東風だからだ。両親は東京・板橋区常盤台で所帯を持ち、私はここで生まれた。空襲が激しくなって妻子は米沢に疎開した。戦後、父が公職追放になり、 仕事の関係で大阪に移り住んだものの、この間一貫して正月の雑煮はお澄ましと切り餅と決まって関東風だった。
片や家内の実家は、家は芦屋にあって、店は代々船場で何代も前から酒造関係の仕事をしていた。芦屋も船場もどっぷり白味噌文化である。左に日本の白味噌文化とお澄まし文化の雑煮マップを掲出したが、見事に我が家の文化圏の相違が浮かび上がる。
加えて4姉妹に末弟に男一人。いまどき谷崎潤一郎描く「細雪」の世界をそのまま具現できる家庭などごく少なかろうが、長女は「とうさん」、次女は「なかいとさん」(なかんちゃん)、三女は「きあんちゃん」、四女は「こいさん」(こいとはん)と呼び習わして育った。
京マチ子主演の映画「細雪」(1959年大映制作、島耕二監督。 四姉妹は、長女轟夕起子、次女京マチ子、三女山本富士子、四女叶順子)では、門構えがイメージに合ったようで家内の実家の玄関がチラッとだが登場する。それくらい純関西風の環境だから、家内は今でも「天満の子守唄」を聞くと涙を流す。
関西風を席巻したお澄まし雑煮 |
我が家は家内からすれば野暮の極みのしょっからい味付け好みだ。すき焼きだって、味噌汁だって、煮物だってみな濃い味だ。 しかし、いくら男ががんばっても女房の食文化に淘汰されるのが世の習いだ。父がそうだったが、長い時間をかけて男は女房の舌に飼いならされる。毎食ごとに文句を言っていたのでは家庭がもたないし、なにがなんでも筋を通すほど食文化に拘泥する者はいないからだ。
私もそれと轍(わだち)を一にしていたのだが、この八ヶ岳の正月で立場が逆転した。上のような市場原理で雑煮は澄まし汁で切り餅入り、湯通しした 餅で納豆餅という私にとって理想的な正月が実現した。娘2人も当然関東風に慣れた。やがて家内もなびいた。家族4人のうち一人だけ関西食文化に 固執するよりあとの3人に合わせたほうが断然合理的だという台所の多数決のなせる業だ。白味噌文化を駆逐して今や八ヶ岳の正月は赤味噌、納豆づけのどっぷり関東風で満足の極みである。例え野暮と言われようとも。
これほどのウドに出会うとうれしくなる |
ついでに言うと、親から人に紹介されるとき「総領の甚六」という言葉が入ることもあった。父に届け物を頼まれて出かけた際の書状に「豚児に持参 させましたので・・」とあった。豚児とか総領という言葉はこうして覚えたが、甚六というのが長年わからなかった。ウドというのもなにか成長の早いメタセコイアのような ものがあるのだろうと思っていた。
*「総領の甚六」 本来は「総領の順禄」。総領が家禄を継ぐのが順当だから「順禄」。総領はおっとり、のんびりしているの が多いので、人の名前に似せて「甚六」という悪口。自然では草丈が3メートルにもなる。涼しい気候を好み、長野県、関東北部などに多く自生している。近縁のタラノキとともに、昔から代表的な山菜として親しまれて きた。コゴミ、ワラビなどと同じころに同じようなところに芽を出す。この周辺の人にしか通じないだろううが海の口牧場の、昔は牛の水呑み場に使われていたあたりは 特に多く、掘り取ってすぐ持参した味噌をつけて食べるが自然のものは市販のウドとは一味もふた味も違う。
野生種は日本、中国、韓国に自生している。今では日本で改良され、栽培化された日本原産の野菜になっているが、10世紀頃にはすでに栽培されていたという。現在の ようなものは軟化栽培といい江戸時代に始まった栽培方法だ。寒中に芽が出て11月〜2月に出荷される寒ウドと、3月〜5月に発芽して出荷される春ウドがあるが、春 ウドの方が軟らかく香りも良いため好まれる。
栽培ものでは単に"ウド"として売られる「軟白ウド」(東京ウド)と芽の先が緑がかった「山ウド」と言われるものがある。前者は畑で栽培した根株を秋口に地下の室 (ムロ)に移し、暗闇の中で発芽させたもの。「山ウド」というのは本来、自然のものを言うべきなのだろうが、市場では、軟白ウドを出荷前に太陽に当てて芽に緑色 を付け、香りを強くしたものをいい、区別して「緑化ウド」とも呼ばれる。
上述のように生のままかじるのが一番だが、もうすこし上品に口にするなら、野菜のウドのように拍子木に切って味噌や梅肉を付けて食べるのがいい。 ハマグリと共に お吸い物にするのも美味だ。時間を置くとアクが強いので、そういう時は皮を厚めにむいて酢水につける。皮はキンピラにして食べる。
ウド(左)とハナウド(右)の葉 |
ウドの花 |
ウドの実 |
独活を「ドッカツ」と呼ぶと漢方薬でウドの根を乾燥させて使う。発汗、利尿作用に用いられ、これはウドの根茎に含まれる芳香成分(精油)の作用だ。大きくなっ たウドの根茎を陰干しして刻み、布袋につめて、風呂に入れれば、からだがあたたまる沐浴材になる。
シシウド | ハナウド | ハマウド |
ウドという名のつく植物としてシシウド(猪独活)、ハナウド(花独活)、ハマウド(浜独活)がある。名前ばかりか花もよく似ているが、別の科(セリ科)の植物で、 いずれも茎の先に直径20センチほどの複散形花序の大きくて白い花を付ける。大きな花がセリ科植物の特徴で傘のようなので昔、唐傘花(カラカサバナ)科と呼ばれて いたことがある。英語でもアンブレラ・ファミリー(カサ科)と言う。ハマウドは関東〜九州の海岸の砂地に生える。