2011年5月課題:無常

無常について


  
「ゆく河の流は絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。」
 鴨長明は『方丈記』でいう。この後「世中(よのなか)にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。」と続く。私なら「人の心も又かくのごとし」としたい。私にとって無常とは人の心の移ろいやすさである。

 私は社会に出た最初の1年、大阪の茨木にあるたばこ工場で過ごした。それは青春の記念碑的1年間であった。当時体験したエピソードの一つ一つが新鮮で、エキサイティングであった。職場で心を通い合わせた多くの人々、あるいはかすかに思いを寄せた女性たち。関西の風物と、本音で生きるエネルギッシュな人々への愛おしさに、私はいつか関西に住みたいと思ったほどだ。そうした思いや記憶がすべてが生涯にわたり私の胸に焼き付き持続すると思った。

 2年余り前、エッセイのテーマが「京都」であった。エッセイの執筆にあたって、茨木にいた当時の日記をひもといてみた。私は愕然とした。50年近い歳月が、見事に当時の思いや記憶のほとんどを消し去っていた。

 人生の無常とはこういうことだと思った。人は心に生起するその時々の想念にいつまでもしがみついていることはできない。人の心は常に移り変わる。しかも、移り変わる心を人は永久には記憶に留めておくことができない。そのほとんどは忘却される。無常の本質はそこにあるのではないか。

 小林秀雄に『無常という事』というエッセイがある。昭和17年に書かれた、文庫本で4ページという短編だが、彼の代表的著作の一つである。読み返してみても、何が言いたいのかよくわからない作品だ。以下は私流の勝手な解釈。

 小林は無常とは「何時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である」と記す。人の心はその時その時によって常に変わる、そうでなければ人は生きていけない、ということだろう。小林は「上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える」という。小林の主張のポイントとなるところだ。ここは強引に、うまく思い出すことにより、無常感を克服することができると解釈する。

 私は「京都」のテーマで、「よみがえる愛ちゃん」というエッセイを書いた。愛ちゃんは、私たちにたばこの包装機の動かし方を教えてくれた指導員で、休日には愛ちゃんや同僚たちと、京都の旧蹟や比良の山に遊んだ。茨木の工場当時の日記と写真を眺めているうちに、私の記憶からはすっか消えていた愛ちゃんが浮かび上がってきた。エッセイの最後は「日記とアルバムから半世紀近くたってよみがえった愛ちゃんは魅力的だ。私は愛ちゃんに遅ればせながらの恋心を抱いた」と結んだ。

 日記と写真は「上手に思い出す」ための道具として極めて有力だ。私もそうだが、日本人の日記好き、カメラ好きの背後には、移ろいゆく自分の心を、あるいは世の中を、その一瞬に常なるものとして留めおきたいという思いがあるのだろう。

補足
 教室での作品には、今回の東日本大震災のことを書いた作品が多かった。「無常」という課題も恐らくそれを意識して出されたものだ。だが、震災で肉親を失ったのでもない人が、本当に今回の地震に無常を感じたのだろうか、私は疑問に思う。私が感じたのは無常ではなく、無情な自然の力であり脅威である。

             2011-05-18 up


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