2011年6月   課題:道草

熊野御前と宗盛
                             

 4月の下旬に旧東海道を袋井から見附(磐田)を経て浜松まで歩いた。見附から浜松へは天竜川を国道1号線で渡らねばならぬ。旧街道は1号線の上流ほぼ1キロのところに渡しがあった。池田の渡しという。池田には藤で有名な行興寺がある。満開には少し早いと思われたが、寄り道することにした。

 行興寺の本堂の前には樹齢300年の藤があり、藤棚が前庭一杯に広がっていた。5分咲といったところだが、長い房がかすかに香っていた。本堂の隣に小さな御堂があり、その奥に高さ1・5メートルほどの古い石塔が2つある。熊野(ゆや)御前とその母の墓だ。

 熊野は池田の宿の長の娘。この地の国司であった平宗盛に見そめられ、愛妾となり、宗盛に従って京都に行く。池田に残した母から病気の知らせが届き、熊野は帰って看病したいと願う。宗盛はその願いを認めなかったが、清水寺での花見の席で熊野が詠んだ「いかにせん都の春もおしけれど 慣れし東(あずま)の 花や散るらん」にうたれ、帰郷を許す。このエピソードは後に「熊野」という能になった。熊野は藤の花を愛し、墓の後ろには熊野が植えたと伝えられる、樹齢850年とされる藤があり、国の天然記念物に指定されている。境内には他にも数本の藤があり、熊野の長藤と呼ばれ、房が1メートルにもなる。

「熊野」は能の中でも名作とされているという。私には初めて聞く物語であったが、宗盛の墓のことを思うと特別の感慨があった。

 平清盛亡き後平家の統領として源氏と戦った清盛の三男宗盛は、壇ノ浦で義経軍に捕らえられる。鎌倉まで護送された宗盛は頼朝と対面し、助命を嘆願する。頼朝は許さず、義経に伴われてまた京へ引き返す。京を目前とした近江の篠原で、宗盛と嫡男清宗は首を刎ねられる。2人の首は都で晒されるが、胴体は篠原に埋められた。中山道(現国道8号線)脇に少し入った所に胴塚がある。昨年秋、中山道歩きの最後の日、武佐宿から草津宿への道で、ここを通った。胴塚には是非立ち寄りたいと思い、ガイドブックに従いその位置を探したが、入り口が見つけられず、あきらめてしまった。後でネットで調べてみたら、街道から胴塚へは人1人やっと歩けるくらいの草道とのこと。画像で見る2つの胴塚は、わずかに切り開かれた林の中に置かれた自然石であった。

「平家物語」によれば、平知盛他の勇将は鎧を重ねたり、重りを身につけて壇ノ浦に身を投げた。宗盛父子は重りもつけず、渋々入水するが、泳ぎがうまかったので、死にきれなかったという。知盛以下の墓は壇ノ浦を見下ろす赤間神社に祀られているが、そこに宗盛父子の墓石はない。死に場所を間違えたのだ。

 宗盛の死を知った熊野は出家し、33歳で亡くなる。熊野と母の墓前の御堂には真新しい千羽鶴などが飾られていた。4月下旬から5月3日の熊野の命日過ぎまで「熊野の長藤祭り」が行われるとのことだが、今年は自粛していた。

 行興寺からまた国道1号線に戻る。時間にして40分ほどの濃い道草だった。道草の後は急がねばならない。浜松駅で従兄弟に会う約束をしていたので、時間に遅れないよう、天竜川を渡って、浜松市内はひたすら歩いた。
        




    熊野と母の墓                   熊野の長藤 樹齢推定850年

   2011-06-22 up


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