2023年8月  課題:朝顔

朝顔姫君

 源氏物語54帖中に「朝顔」の一帖がある。朝顔姫君が源氏の懸想をひたすら拒むという帖だ。物語全体のなかでも何気なく読んでしまい、姫の印象も極めて薄い。一方、一夜を過ごし帰ろうとする源氏の目の前で死んでしまった夕顔、怨霊となって夕顔や葵上にとりつく六条御息所、密会を見つかってしまい源氏失脚の一因となった朧月夜などは極めて強いインパクトを与える。

 源氏物語も第2部に当たる「若菜」の帖では、源氏と兄の朱雀院の皇女三宮との結婚が行われる。紫上という妻がいながら改めて結婚とは不思議だと思った。そんな時『源氏物語の結婚』(工藤重矩)に出会った。

 この本によれば平安時代は一夫多妻制ではなく、一夫一妻制が律令で決められていた。貴族の場合、正妻は高い格式の家柄の正妻の子で、しっかりとした後ろ盾があることが必要であった。源氏の妻、葵上は時の左大臣の娘でこの条件を十分に満たす。一方紫上の父は皇族であるが、すでに亡くなっている。母は正妻ではなく、母方の庇護もないので、正妻にはなれない立場である。

 葵上は男児を出産するが、ほどなく物の怪に憑かれて亡くなる。源氏22歳の秋である。葵上の死後、源氏は紫上と新枕を交わす。事実上の結婚である。

 源氏には再婚の候補が3人あった。亡くなった東宮の妃であった六条御息所、右大臣の娘朧月夜、そして朝顔姫君である。六条御息所は娘が伊勢の斎院になったのについて、伊勢へ下向する。朧月夜と源氏は密会を続けていたが、右大臣からの結婚の打診を源氏は断る。朝顔姫君の父は桐壺帝の弟。従って源氏の従姉妹で、源氏は17歳の頃から姫に好意を抱き、朝顔を送り歌を交わしている。しかし、姫は賀茂の斎院に任命され、神に仕える身で結婚は不可能となる。

 10年後、朝顔は父式部卿宮の死去に伴い、斎院の役を終え、叔母の五宮の屋敷に移る。源氏にも叔母である五宮の見舞いにかこつけて、源氏は繁く朝顔のもとを訪れる。源氏32歳である。そんな源氏は世間の噂の種になる。ようやく安定してきた紫上の立場は危うくなり、紫上は悩む。しかし、朝顔は源氏を拒み通して結婚は実現しなかった。物語のなかでも唯一源氏と契りを結ばなかった女性である。

 もし、朝顔が源氏と結婚してしまえば、正妻でないにもかかわらず、源氏の愛に守られて最後は栄華を極めた紫上の物語が成立しない。そのために、紫式部は朝顔に最初は斎院という地位を与え、その後は思慮深く、賢く、決して源氏になびかない性格に設定したと『源氏物語の結婚』の著者はいう。「朝顔」の帖に描かれた朝顔姫君のこうした性格は物語の大きな鍵であり、紫式部の綿密な構成力を示すものだという。

 第33帖「藤葉裏」で源氏は准太上天皇という位を得る。源氏と紫上の栄華の物語はここで終わってもよかったが、評判がよく第2部へと進んだ。そこでは源氏は兄の朱雀院から皇女の三宮を押しつけられて正妻として迎える。それをきっかけに紫上は悩みのうちに亡くなり、さらに三宮が不義の子を産むという悲劇が源氏に降りかかる。

 こうした第2部があることにより、源氏物語はぐっと厚みを増し、深いものになっている。

   2023-08-29 up

 


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