2019年2月 課題:「杖」 

馬上の芭蕉

 隅田川に架かる千住大橋の北詰、巨大なコンクリートの橋脚に、『奥の細道』 の一節と、旅姿の芭蕉と曽良の絵が描いてある。隅田川を舟でやってきた芭蕉が、ここで舟を下り、奥の細道に旅立ったとされる。絵は蕪村の原画を写したものだが、芭蕉も曽良も長い杖を手にし、菅笠をもっている。蕪村は直接は芭蕉を知らないが、芭蕉存命中に画かれた許六の絵でも、芭蕉と曽良は法衣にずだ頭巾、手には長い杖と菅笠を持っている。

 このような旅姿の絵はずいぶん以前に何かの本で見たのだろう。芭蕉のみならず、江戸時代の旅は、この絵のように杖に頼りながら、目的地まで歩き通したと、思い込んでしまった。実際はそうではなく、芭蕉も馬を利用したと知ったのは、東海道歩きの際、小夜中山で芭蕉の句碑を見たときだ。

 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

 芭蕉は馬も利用したのだ。この句は貞享元年(1684年)、郷里の伊賀へ向かう旅での句。小夜中山は金谷と日坂の間にある峠で、古来歌枕として知られているところだ。早朝に金谷を発った芭蕉は馬上で寝てしまった。小夜中山にきたら、月はまだ西に高く、朝餉の煙が日坂の方からは立ち上ってきた。

 実は、『奥の細道』にも、那須で馬を利用するエピソードが記されている。『奥の細道』を読んだのは30年も前のことで、そのときは芭蕉の旅に馬が使われていたことなどには、注意がいかなかったのだ。

 東海道にはもう一つ馬上の芭蕉の句碑があった。杖衝坂だ。杖衝坂は四日市と石薬師宿の間にある。名前は東征を終えた日本武尊が、伊吹山の神と戦い傷つき、大和を目指し帰る際、疲れ果て、剣を杖にしてこの坂を登ったと古事記にあることに由来する。

 杖衝坂は思ったより急な坂で、コンクリート舗装されていた。現在はすぐ西側に国道一号線が通っているから、通る車もまれである。登って行くと右手にカーブするところに、坂の由来の説明板と芭蕉の句碑が建つ。

 歩行ならば杖つき坂を落馬かな

 この句は『笈の小文』に載る。芭蕉自身は次のように記す。

「・・・日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。
歩行ならば杖つき坂を落馬哉
 と物うさのあまり云出侍れ共、終に季ことばいらず。」

貞享四年(1687年)師走10日過ぎ、名古屋から伊賀上野に向かう際の吟である。

「歩けばよかったのに、馬に乗ったばかりに落馬してしまった」と思わずつぶやいた句。夢見心地の小夜中山では落馬は免れたものの、ここではついに落馬してしまった。落馬と、どうしても季語が入らなかった句。俳聖としてではなく、人間としてたまらなく親しみを感じる芭蕉だ。とはいえ、落馬も五七五にしてしまうところはさすがに俳聖。

 坂を上がったところに血塚という小さな祠がある。日本武尊が足の出血を封じたところだという。血塚の向かいの民家の垣根沿いには吾亦紅が咲いていた。

 蕉翁の落馬せし坂吾亦紅   




  千住大橋 奥の細道旅立ちの地



   杖衝坂 芭蕉句碑

   2019-02-20 up

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