2018年10月  課題:「惜しむ」 

日馬富士引退相撲


「ハルマフジー!」。国技館によく通る女性の声援が飛んだ。隣の席の女性からだった。土俵上で横綱締めの実演をするためにこの日初めて日馬富士が花道に姿を現したときだ。9月30日、日馬富士引退大相撲でのこと。私は西正面の2階椅子席にいた。隣の女性はまだ30代に見える女性で、一人で来ていた。

 綱締めが終わると、日馬富士最後の土俵入り。露払い鶴竜、太刀持ち白鵬という豪華な顔ぶれだ。初めて見る実物の日馬富士だが、張りのある体は左右に控える鶴竜と白鵬に少しも見劣りしなかった。隣の女性からはまた館内に響き通る掛け声がかかった。

 ついで断髪式。八年前の朝青龍の断髪式では、森喜朗、江田五月、モンゴルの首相など、各界の名士がはさみを入れた。今回は誰が来るかと見守ったが、私の知っているような名士はほとんどおらず、名前も初めて聞くような企業の代表者が次々と土俵に上がった。日馬富士というより伊勢ヶ濱部屋後援会のメンバーなのだろう。朝青龍の時には北の湖や千代の富士など協会幹部もはさみを入れたが、今回はそれもなかった。引退の理由が傷害事件であったことは朝青龍も日馬富士も同じであるが、朝青龍は示談ですみ、日馬富士は刑事事件として罰金刑を受けたことが、こうした差に出てくるのだろうか。唯一目についたのは朝青龍。弟分として可愛がった日馬富士のためにわざわざ来日したのだ。

 400人にも及ぶ断髪式は2時間10分にも及んだ。朝青龍の場合は正面を向いたまま、断髪が進んだが、お客さんに見やすいようにと、日馬富士は途中で東正面、西正面にも向きを変えた。ファンを大切にする日馬富士の心遣いがうれしい。

 日馬富士は絵が上手で、画廊で個展を開くほどの腕前と聞いていた。引退相撲に合わせて国技館の大広間で展示会が開かれていたので、断髪式を抜け出して見て来た。会場には行列が出来ていて、20分も待たねばならなかった。作品は20点ほど。半分以上が富士山の絵で、大きく、力強い筆致の何のけれん味もないわかりやすい絵だ。

 稀勢の里、鶴竜、白鵬に続き、最後は元旭富士の伊勢ヶ濱親方が髻を切って、断髪式を終了。土俵を下り、夫人と子供から花束を受け、最後は朝青龍と同様、土俵にキスして去って行った。続いて幕内力士の取り組み。三横綱の土俵入りから、三役揃い踏み、弓取り式と本場所同様の進行。いわゆる花相撲だから、がっぷり組んでの寄るだけの相撲。傷害事件の被害者貴ノ岩はでなかった。

 ほぼ満員の国技館には女性が多かった。絵を描いたり、心臓病の子供たちを救う活動を支援したりした豊かな人間性が、隣の女性のような女性ファンを獲得したのだろう。私の席は西の真正面であった。そして真後ろには日馬富士の優勝額。偶然とはいえ、私の日馬富士への思いが通じた気がした。

 朝青龍のファンであった私は、彼の引退後は、一筋に日馬富士ファンであった。気合いに満ちた速攻相撲は、相撲は「心技体」という言葉をそのまま実現したものだ。それはまた、彼の口癖「お客さんに喜んでもらえる」相撲であった。白鵬という大横綱がいながら、気力と技で勝ち取った日馬富士の優勝9回は立派と言うほかない。

 最後に。髪はオールバック、黒いスーツに蝶ネクタイの日馬富士が出てきて感謝の言葉を述べた。傷害事件へ触れることはなかった。

 私はそれでいいと思った。

参照
「朝青龍引退相撲」
「日馬富士と稀勢の里」

         2018-10-18  up


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