2018年11月  課題:「風呂」 

ドラム缶風呂


 復員した父は郷里の豊橋市の田舎で、農協の事務員や中学の代用教員などをしていたが、昭和24年の初めに、戦前に勤めていた芝浦の町工場へ復職した。終戦から3年あまりたって、東京も少しは落ち着いてきたと判断しての上京だった。戦前住んでいた横浜の借家は空襲で跡形もなく焼け落ちていた。私たち一家4人が住んだのは、港区三田、田町駅の近く、今の都営三田線の出口からは1分もかからないところにある借家だった。私は小学校4年から高校3年まで、少年期から思春期をこの家で過ごした。

 家は木造平屋で間口2間、奥行き4間に半畳ほどのトイレが北西の隅に付いたもの。建坪8坪、畳の数にすれば16畳という狭い家だった。入り口の引き戸を開けると、家中がすべて見渡せる。手前に50センチほどの高さで4畳半ほどの板張りの床があり、その奥に6畳の畳の間。板の間の右手に流し一つとガスコンロ一つだけの台所。これが私たちの一家4人の生活空間であった。

 入り口の右手に隣接して3畳ほどの物置があった。そこにドラム缶風呂があった。最初からあったものではなく、父があとから作らせたものだ。町内に銭湯はあり、小さい頃はよく行った記憶がある。父が家内風呂を作った理由は定かではないが、一つには銭湯に行くよりも安上がりだと考えたのだろう。20センチほどの高さのコンクリートの丸いかまどの上にドラム缶をのせたものだ。ドラム缶は父の会社で不要になったものを運んできた。内側は塗装がされていたが、風呂桶用に塗装したものではなく、もともとそうしたドラム缶だったのだろう。ドラム缶の横に30センチほどの高さのすのこを置く。水道は来ていないので、母屋の板壁に穴を開け、金属製のパイプを通し、ゴムホースで流しの蛇口につないで水を入れる。何しろ、一家に蛇口が1個しかないから、洗面も、調理も、洗濯も風呂もみな水はすべてここを使う。

 燃料は薪。近くの炭屋から薪を買ったのかも知れないが、私の記憶では父の会社で出る梱包材などの廃材を運んできて薪代わりによく使った。薪を割る大きな斧があり、薪割りと風呂焚きは中学高校時代の私の役目だった。

 風呂を沸かしたのは、週に2回くらいだろうか。ドラム缶だから首までとっぷりとつかることが出来たが、足は伸ばせなかった。母屋との間は薄い板壁1枚で隔てられていたから、入浴中湯加減が熱いと思ったら、「水」と叫ぶと、家にいるものが、流しの蛇口を金属パイプにつないで水を送った。風呂桶の横には薪が積んであったから、入っているものが残っている火種に薪を足して温度を上げることも出来た。

 高校生の時、物質の燃焼熱を習ったのを機会に、この風呂の燃焼効率を計算してみた。燃料の木材が100%セルロースだと仮定して効率を計算すると、驚くほど低く、20%ほどだった記憶がある。

 日本が高度成長期に向かい始めた昭和31年、父はやっと大田区の多摩川縁に念願の自宅を持つことが出来た。三田の家の2倍の広さの建て売りテラスハウスで、ガスでわかす風呂が付いていた。浴槽はステンレス製だった。

   2018-11-28 up


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