信州ゆかりの不思議な歌三つ
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長野とかかわりを持つようになって知った「故郷」 「信濃の国」 「千曲川」の三つの歌。 |

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『故 郷』 (ふるさと)
唱歌「故郷」(ふるさと)は海外にいる日本人が涙を流す歌だ。「うさぎ追いし かの山・・・」の故郷の山河の描写のあたりはともかく、「いかにいます父母・・・」
あたりでもうだめだ。シベリアに抑留された兵士はこの歌に滂沱(ぼうだ)の涙を流したという。
私もそうした場面に出会ったことがある。一度目は1ドル360円時代のロンドンで、
二度目は1ドル100円台のアムステルダムで。この間10数年があいていたが、それぞれ日本企業のビジネスマンと家族がいるパーティーの席だった。
日本企業の尖兵としての気負いや、郷愁が入り混じっての涙だろうが、3日前に日本を出たばかりの私もほろりとした。
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| 故郷に建つ歌碑 |
故郷(ふるさと) 高野辰之 一、 兎(うさぎ)追ひし か(彼)の山 小鮒(こぶな)釣りし か(彼)の川 夢は今も めぐ(巡)りて 忘れがたき 故郷(ふるさと) ニ、 如何(いか)にいます 父母(ちちはは) 恙(つつが)なしや 友垣(ともがき) 雨に風に つけても 思ひ出(い)づる 故郷(ふるさと) 三、 志(こころざし)を はたして いつの日にか 帰(かえ)らん 山はあをき 故郷(ふるさと) 水は清き 故郷(ふるさと) (昭和8年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』)
文語体だが誰にでもわかる内容で、せつせつと日本人の琴線にふれて美しい。「ウサギを食べると 美味しい」と覚えた子どももやがて大きくなると理解する。
この歌を作詞したのは高野辰之(たかのたつゆき)(明治9/1876〜昭和22/1947)という信州人だ。長野県北部の寒村、下水内(しもみのち)郡豊田村(合併で現在は中野市)出身の国文学者
で、東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)教授のとき、同じ学校の声楽の助教授だった岡野貞一とともに、文部省唱歌をつくることを命じられる。
いわば業務命令によるコンビだが、この二人による唱歌は驚くほど多く、しかも今なお歌い継がれている。
この
(「故郷」(うさぎ追いし かの山・・・)はじめ、
「紅葉」(秋の夕日の 照る
山もみじ・・・)、
「春の小川」(春の小川は さらさらいくよ・・・)、
「朧(おぼろ)月夜」(菜の花ばたけに 入り日うすれ・・・)、
「春が来た」(春が来た 春が来た・・・)、
「日の丸のはた」(白地に赤く 日の丸染めて・・・)
みんな二人の作だが、著作権という考え方がない時代で、すべて文部省唱歌」で片づけられ、家族も戦後になってはじめて知ったものもあるという。
◇ ◇ ◇
唱歌「故郷」を知らない人はいないだろうが、由紀さおりと安田祥子姉妹が元の歌に忠実に歌っているのがあるので動画を紹介する。また「紅葉」は音声が 悪いが他に見つからないのでコーラスのものをアップしておく。
左は倍賞千恵子が歌う「朧月夜」)、右は由紀さおりと安田祥子姉妹の「春の小川」
◇ ◇ ◇
それにしても、なぜ政府が唱歌をつくる必要があったのか。私は見なかったがテレビドラマでも放送された「唱歌誕生-ふるさとを創った男」(文春文庫) を著した作家の猪瀬直樹さんによると、「五音音階といって、ドレミファソラシドのファとシが日本にはなかった。そういう発音がないのだから、西洋の歌は日本 人には歌えなかった。そこで、文部省はなんとか西洋の音楽を、歌えるようにしたいということで作ったのが文部省唱歌。だから、二人による唱歌のうち低学年用の<春がきた>と<春の小川>にはファとシが入ってなくて、高学年になるに したがって、七音音階ができるように、ファとシが入るようにつくってある」という。
日本にはなかった西洋からの借り物の音階でつくられた「故郷」がなぜこうも日本人の琴線に触れるのか。平成元年NHKが行なった「日本のうた ふるさとのうた」100
選にはこのコンビによる唱歌はなんと4曲も選ばれている。
歌詞をみると、日本の原風景である里山(さとやま)が描かれているので郷愁をかきたてられることもあろう。親を思い、友を偲ぶ万人共通の懐かしさに心が揺さぶ
られるのかもしれない。私は東京・板橋区常盤台で生まれ、大阪の南郊、南河内郡狭山町で育った。どちらも田舎の風景を持つところだが、故郷というとき、この二つ
の地は入っていない。疎開した山形県・米沢の風景や学生生活を送った札幌のほうがイメージが近い。故郷とはなんだろう、と思う。
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| 高野辰之 |
高野が通った故郷の永江学校は長野県下水内郡永江村にあったが、その後豊田村、そして今は中野市に編入され、平成3年にここに高野辰之記念館が建てられた。終焉の地、野沢温泉にも記念館がある。
高野は飯山の学校に通い、真宝寺に下宿した。その寺というのが、島崎藤村の『破戒』に登場する寺で、 高野はモデルとされる住職の三女 つる枝と結婚した。『破戒』では住職が好色漢として描かれたため地元 では一時、問題になった。高野は娘婿という立場で藤村に抗議文を送りつけた一幕もあったという。
高野辰之(明治9.4.13〜昭和22.1.25)
1876年 長野県下水内郡(しもみのちぐん)永江村(のち永田村、
現中野市豊田大字永江1809)に生まれる。
下水内高等小学校(現 飯山市)へ入学。家から往復16qの道を
歩いて通った。冬は、飯山の寺に下宿。
長野県尋常師範学校(現 信州大学教育学部)に入学。「信濃の国」の
作詞者、浅井冽の人柄にひかれ、国語と習字を専攻した。
卒業後、師範学校の教壇に立つ。
1898年 飯山の下宿先の真宝寺の住職の三女 つる枝と結婚。上京、二年後に帰郷。
1902年 再び上京し、文部省国語教科書編さん委員。
1909年 文部省小学校唱歌教科書編さん委員。
1910年 東京音楽学校教授となり「日本歌謡史」を講義。
1925年 論文「日本歌謡史」で東京帝国大学から文学博士号を受ける。
1928年 帝国学士院賞を授けられる。天皇・皇后両陛下にご進講。
1935年 勲三等瑞宝章を受ける。
1943年 長野県下高井郡野沢温泉村の別荘「対雲山荘」に隠棲する。
1947年 対雲山荘にて永眠。71歳。
《唱歌と童謡、どこが違うか》
今では唱歌も童謡も区別がつかない世代が増えた。この二つははっきり違う。広辞苑にはこうある。
唱歌(しょうか) 旧制の小学校の教科の一。1941(昭和16)年から音楽と改称。主として明治初期から第2次大戦終了時まで
学校教育用に作られた歌。「小学校唱歌集」。
童謡(どうよう) 子どもが作って口ずさむ歌、または詩。童心をそれにふさわしい言葉で表現した、子供のための歌、または
詩。民間に伝承されてきたものを「わらべうた」という。大正中期から昭和初期にかけて北原白秋らが文部省唱歌を批判して
作成し、運動によって普及させた子どもの歌。
つまり、唱歌は文部省が作ったか選定した歌であり、童謡は民間の詩人、音楽家が作った歌なのだ。童謡には個別の作者が
あるが、唱歌にはない。唱歌集には個別の作者名を書いたものもあるが(このホームページもそうだが)、それは
戦後研究者が調査して突き止めたものであって、元来は作者名は公表されていないのが普通だ。また、 唱歌の歌詞は
おおむね文語であり、童謡は口語が多いが、唱歌は子供を教育する手段だったから、文部省の”お上”意識が反映しているとも
考えられる。童謡は子供と同じ目線に立っているから分かりやすい口語が多いという特徴があげられる。
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『信濃の国』
この歌はもっと不思議だ。歌えない長野県人はいないと言われている。週末を八ヶ岳で過ごすことが多くなって、信州の山や川にひかれるとともに、この県に愛着を持ちはじめた。固定資産税を納め、村民税も払い、県民に近いと思ったこともあるが、「信濃の国」は出だし
くらいしか知らない私は失格ということになる。小学校の運動会のような公式行事、地域の行事で必ず歌われる。県外に出てもクラス会、同窓会、県人会など必ず県歌「信濃の国」が歌われるそうだ。今をときめく田中康夫知事ももちろん歌えるはずだ。
「信濃の国」( 浅井 洌・作詞、 北村 李晴 ・作曲)=リンク先は県のホームページ。サウンド
マークのクリックでメロディーが出る=という歌を知る前に、信濃という土地の歴史を知らねばならない。長野県は県内を東信(佐久市・小諸市・上田市・南佐久郡・上田市など)、北信(更埴市・須坂市・中野市・長野市など)、中信(松本市・塩尻市・大町市・北安曇郡・木曽郡など)、
南信(諏訪市・岡谷市・茅野市・伊那市・駒ヶ根市・飯田市など)の4つに分けることが多い。ところがこれらの市町村はみな群雄割拠時代そのままにまとまりがないのだそうだ。
どこの県もだいたい中心になる昔の「藩」があるのだが、この地方は一度も統一されたことがない。
徳川時代でも幕府や社寺の直轄領がモザイクのように入り組んでいて独自の文化を育んできた。「信州合衆国」といわれるほど独自性が強い。中でも松本と長野の張り合いは有名で、何か新しい施設が作られるたびにこの2つの町は激しい誘致合戦を繰り広げてきた。
たとえば、長野の師範学校に対する(旧制)松本高等学校 、日本銀行支店( 県庁所在地以外に支店が置かれたのは松本と小樽と下関ぐらい)、陸軍の歩兵連隊の誘致、鉄道の誘致( 信越線は長野を通るが松本へは中央線からの支線篠ノ井線)・・・戦後になっても同じで、最近のジェット空港や 新幹線,高速道路,国民体育大会など
で繰り広げられた。 オリンピックは2本の高速道路と長野新幹線をもたらしたが、ほとんどの会場は長野側だったから、松本はそっぽむいていたという。
だいたい、国立大学は「信州大学 」だし、地方銀行は「八十二銀行 」(むかし銀行に番号をつけた。今残っているのは知る限りでは第一勧業銀行と三重県の百五銀行くらいか)、地方新聞は「信濃毎日新聞」で県内最初の民間放送局は「信越放送」 。
こういうのは他県では県か県庁所在地の名前がつくのが普通だろう。長野や松本の名前をつけることを互いに許さないからこうするしかないという。いやはや。
こういう背景を知ってから「信濃の国」をみるとわかってくる。この歌が長野県歌に制定されたのは、戦後もだいぶたった1968(昭和43)年のことだ。はるかそれ以
前から歌われていたから「県歌」だから県民に広まったということではない。だいたい県歌はどこの県にもあるが、だれも知らないのが普通だ。
この歌は当初、小学校唱歌として明治32年に発表された。作詞者は当時長野県師範学校(現:信州大学教育学部)の教諭であった浅井洌。教員の団体である信濃教育会(いまも活動していて長野県が教育県といわれるゆえん)の委嘱を受けてのことだった。
「信濃の国」は、1900年(明治33)秋の師範学校の運動会で女子部生徒の遊戯用として歌われた。それが,たちまち県内に普及するのは、先生がみんな長野師範出だから。教員たちが “新しい音楽教材”として赴任校に持ち込み、県内の小学校の運動会で必ず演奏される歌となっていったのだそうだ。
歌詞を見ると、山、川、産物、郷土の偉人がまんべんなく選ばれているのがわかる。一体性のない県民を統合するために必要な小道具だったのだ。
ただ、八ヶ岳の東の山腹にいる私としてはどうして歌詞に「八ヶ岳」がないのか理解に苦しむ。南北アルプスの山がつぎつぎ歌われる中で八ヶ岳は一度も出てこないのだ。ひがんでいうのではないが、信州の中でもこのあたりはさらに「無視」されているようだ。
天気予報を見てもそうだ。長野県は予報区が北部、中部、南部に分かれている。このあたりは「中部」に分類されているが、同じ中部といっても真ん中に八ヶ岳があるのだから、西から変わる気象は山の向こう側の中部とは当然変わってくる。中部?どこの話だ、といったところ。気温だってぜんぜん違うのに、NHKの気象情報で、
一番近くで読み上げられるのは軽井沢の気温ときている。仕方がないので山梨西部の予報と気象衛星の写真で自己流の予報をするしかない。このあたりの人も長野や松本より、もっと近い山梨県甲府方向を向いているようだし、「信州合衆国」とはよくいったものだ。
よそ者の私ですらバラバラだと感じる県民性をまとめるために歌がはたした役割は大きい。
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| 作詞100周年を記念して平成12年には 「信濃の国」の切手が発売された。 |
▽1953年(昭和28)に浅間山麓を米軍の演習地にする計画が持ち上がったとき、ほとんど全県民あげて反対した。軽井沢中学校体育館で開かれた県民大会の最後に歌われたのが「信濃の国」であった。結局、この県民あげての運動が実を結び、浅間山麓を演習地として使用する計画は白紙撤回された。
▽1963年(昭和38)新県庁舎の建設と松本諏訪新産業都市の指定をめぐって,県議会においてまたも南北信の議員の主張が激しく対立した。その係争が最高潮に達したとき,議場のどこからか「信濃の国」がうたわれた。まもなく,その歌声は全員の大合唱に拡大されていった。この歌声に感激した県会議員たちは,激しい対立に終止符をうち,政治的な和解に持ち込んだ。
▽1994年(平成6年)第76回夏の高校野球6日目の甲子園。長野県代表の佐久高校と、福井代表の敦賀気比高校の対戦は5回まで0対0の投手戦。このとき3塁側・佐久高校の応援団席から突然、県歌「信濃の国」の大合唱が始まった。校歌でも応援歌でもない。中継しているNHKのアナウンサーも、絶句しているうち、5点が入り、佐久高校は、
長野県勢としては54年ぶりにベスト4進出を果たした。
こうなると神がかり的効果だが、とどめは1998年2月の長野冬季オリンピックの開会式だ。日本選手団が入場するとき会場で湧き起こった大合唱。そのとき合唱されたのが「信濃の国」
である。長野県限定のこの歌が国際的になったのだ。なんとも不思議な歌ではないか。
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『千曲川』
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| 春先、雪解け水が流れ込む県境あたりは、 濁流で上流よりはるかに荒々しい面を見せる。 =産経新聞から |
ここで獲れる鮎は日本で指折りの味だ。つまり苔がいいということだが、
毎年夏味わう塩焼きを楽しみにしている。そういうこともあるが、だんだん好きになり日本海までカヌーかボートで下りたいとも思う。
そのとき口ずさむのは「千曲川」だと勝手に決めている。島崎藤村のほうではなく、五木ひろしの方だ。それほどこのあたりにぴったりしている歌謡曲なのだ。
もちろん下敷きは島崎藤村の「千曲川旅情の歌」だ。
こちらのほうもちゃんとした歌曲があるのだが、いかんせん難しくて私にはなじまない。
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草もしくによしなし
しろがねの衾の岡辺 日にとけて淡雪流る
暖かき光はあれど 野に満つる香りも知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ
暮れ行けば浅間もみえず 歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む
高校1年のときの国語の先生は、まず暗記しなさいという人で、最初に全文諳んじたのがこれだった。ついで「源氏物語」「奥の細道」「枕草子」の出だし・・・とかなりの古典を覚え、これはこれで役にたった。 だからこの地に来てまず藤村の詩が口をついて出た。しかし、現物を前にすると「はこべ」も敷くような「若草」もさがすに苦労する。「旅人」も「佐久の草笛」も「濁り酒」もない。 どうしても歌謡曲「千曲川」(作詞:山口洋子、 作曲:猪俣公章)の方がしっくりするのである。
♪水の流れに 花びらを
♪そっと浮かべて 泣いた人
♪忘れな草に かえらぬ
♪想い出させる 信濃の
♪明日はいずこか 浮き雲に
♪煙たなびく 浅間山
♪呼べどはるかに 都は遠く
♪秋の風立つ すすきの径よ
♪一人たどれば 草笛の
♪音いろ哀しき 千曲川
♪寄せるさざ波 くれゆく岸に
♪里の灯ともる 信濃の旅路よ
(右向き矢印のクリックで動画再生)
◇ ◇ ◇
作詞家であり、文筆家でもある山口洋子は、五木ひろしのプロデューサーでもあった。エッセーに書いている。
「この歌には先に曲があった。歌詞もついていた。ついていたというより星野哲郎先生作詞による『笛吹川』という
嫋々たる詞がまずあって、それに故猪俣公章氏があとから曲をつけた作品なのだ。のみならず歌い手も発売日も決定していて、順調にいけばそのまま川中美幸さんの再デビュー曲になるはずであった。
たまさか猪俣氏のピアノで曲を耳にするや、私はこれこそ自分がいままで待っていた曲だと瞬間的に思った。メロディーに日本のふるさとの色あいがあり、常日頃から恋してやまぬ信州の風景がはるばると広がる。しかも大好きなメジャーワルツ。
私はその場で強引に曲を頂き、おまけに五行詞だったところを頼みこんで四行に短くしてもらった。家で聴くとこれぞ(藤村が描く)信州、千曲川の情景以外の何も
のでもないと感じた。日本の原点、万人のふるさとへの回帰」
私は後年、五木ひろしの結婚式に出席した。親しいわけではなく、新聞社編集局で芸能関係を所管する役職にいただけで、新婦は誰もが 知っている女優ということだが私は名前も知らず、新高輪プリンスホテルの飛天の間で私のテーブルの周りを見ても誰一人として見覚えがない。この歌でも歌ってくれるかと思ったがそれもなく、 バツのわるい2時間を過ごした。
1975(昭和50)の紅白歌合戦では、五木ひろしがこの歌でトリをとった。1998年のNHKテレビ「1000万投票BS20世紀日本のうた」で発表された上位100曲中45位(唱歌・歌謡曲などのジャンル問わず)にはいっているというから スタンダードナンバーといっていいのだろうが、なにより信州のこの地にふさわしい曲なのである。
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