信州ゆかりの不思議な歌

長野とかかわりを持つようになって知った信州ゆかりの歌。
「故郷」 「信濃の国」 「千曲川」そして「早春賦」「故郷を離るる歌」に日本人と信州人のアイデンティティーをみる思いである。

同時に日本語の持つ美しさに惹きこまれてしまうのは私だけだろうか。 (リンク先にある歌はサウンドつきなので、音量調整を確認してください。)



 『故 郷』 (ふるさと)

唱歌「故郷」(ふるさと)は海外にいる日本人が涙を流す歌だ。もはや「国民歌」、 あるいは「君が代」につぐ「第2国歌」いう地位を占めているといってもよかろう。新聞では「故郷」(ふるさと)というとき「古里」と表記する。当用漢字音訓表に 「ふるさと」という読みがないためだが、なんだか古物店のようで嫌だ。音訓表の方を改めてきちんと「故郷」は「ふるさと」と読めるようにしてもらいたい。

本題をそれたので、海外でこの歌に涙する日本人の話に戻るが、戦後ソ連によってシベリアに抑留された日本兵はこの歌に滂沱(ぼうだ)の涙を流したという。
私もそうした場面に出会ったことがある。一度目は1ドル360円時代のロンドンで、 二度目は1ドル100円台のアムステルダムで。この間10数年があいていたが、それぞれ日本企業のビジネスマンと家族がいるパーティーの席だった。 日本企業の尖兵としての気負いや、郷愁が入り混じっての涙だろうが、3日前に日本を出たばかりの私もほろりとした。

「うさぎ追いし かの山・・・」の故郷の山河の描写のあたりはともかく、「いかにいます父母・・・」あたりでもうだめだ。忘却の彼方から一気にそれぞれの人の「故郷」を引っ張り出して懐旧 にひたらせてしまうのだ。

◇長野冬季五輪の閉会式は全員で「故郷」合唱◇

長野五輪閉会式では、杏里が歌う「故郷」に
選手も観客も一体になって合唱した。
この歌が日本人の心を揺さぶったもう一つのシーンがある。1998年(平成10年)の長野冬季五輪の閉会式のセレモニーで取り上げられたのは文部省唱歌『故郷(ふるさと)』だった。歌い、踊りのあと、ややあって、しんとした会場に歌手の杏里(あんり)の「うさぎ追いし彼の山・・・」の歌声が流れ始めた。やがて長野市児童合唱団の歌も加わり、スタジアムを埋め尽くした観衆が、一斉に5万個の提灯をともし「夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷…」と5万人の大合唱となって、一気にクライマックスに達したシーンは今も多くの人の印象に残る。

 この歌が選ばれたのは、もちろん作詞の高野辰之が地元・長野出身だったことによるものだが、国民に好きな唱歌・童謡のアンケートをとると、必ずトップ争いをする「日本人の心のふるさと」というべき名曲として定着していることからである。




故郷に建つ歌碑
「故郷」    高野辰之

一、
  兎(うさぎ)追ひし  か(彼)の山
  小鮒(こぶな)釣りし  かの川
    夢は今も  めぐ(巡)りて
    忘れがたき  故郷(ふるさと)
ニ、 
  如何(いか)に在(い)ます  父母(ちちはは)
  恙(つつが)なしや  ともがき(友垣)
    雨に風に つけても
    思ひ出(い)づる  故郷
三、
  志(こころざし)を はたして
  いつの日にか 帰らん
    山はあを(青)き 故郷
    水は清き 故郷

(昭和8年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』)
 原文は平仮名だが、かえって読みづらいので漢字まじりにしたもの。

文語体だが誰にでもわかる内容で、せつせつと日本人の琴線にふれて美しい。「ウサギを食べると 美味しい」と覚えた子どももやがて大きくなると理解する。 この歌を作詞したのは高野辰之(たかのたつゆき)(明治9/1876〜昭和22/1947)という信州人だ。長野県北部の寒村、下水内(しもみのち)郡豊田村(合併で現在は中野市)出身の国文学者 で、東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽学部)教授のとき、同じ学校の声楽の助教授だった岡野貞一とともに、文部省唱歌をつくることを命じられる。

いわば業務命令によるコンビだが、この二人による唱歌は驚くほど多く、しかも今なお歌い継がれている。この(「故郷」(うさぎ追いし かの山・・・)はじめ、 「紅葉」(秋の夕日の 照る山もみじ・・・)、「春の小川」(春の小川は さらさらいくよ・・・)、「朧(おぼろ)月夜」 (菜の花ばたけに 入り日うすれ・・・)、「春が来た」(春が来た 春が来た・・・)、 「日の丸の旗」(白地に赤く 日の丸染めて・・・)。これらはすべて二人の作だが、著作権という考え方がない時代で、すべて文部省唱歌」で片づけられ、家族も戦 後になってはじめて知ったものもあるという。

唱歌「故郷」のもつ歌の力、というものを考えさせられる記事を見た。「ラストソング」というテーマのこの記事を紹介する。

66年前、沖縄・喜屋武岬の海岸で最後の歌に選んだ人がいる。宮城喜久子さん(82)は当時16歳、戦場に動員された「ひめゆり学徒隊」生存者の一人である。『婦人公論』(中央公論新社刊)6月22日号で作家小林照幸さんが宮城さんを取材し ている。深夜、蛆(うじ)が負傷兵の傷口から膿(うみ)を食べる音が響く戦場の生活は、凄惨を超えて酸鼻に近い。銃火に追われ、自決用の手榴弾を手にした宮城さんと三人の友は最後の合唱をした。兎追いしかの山…。「歌ったことで我に返った」という。このまま死ぬのはあまりに悲しい、と。10万人におよぶ住民が犠牲になった沖縄戦の終結は6月23日、「慰霊の日」がまためぐってくる。(2011年6月22日 読売新聞「編集手帳」)

◇ ドミンゴ「故郷」を歌う◇
日本語で「故郷」を歌うドミンゴ(2011.4.10)
日本人にとって「故郷」(ふるさと)はいまや国民歌というべき存在になったと思うが、その歌の力を如実に示したのが2011年3月11日日本を襲った東日本大震災だった。被災地で 、神戸で、遠く離れた海外で、それぞれ励ましと復興を願ってこの歌が歌われた。

そうした中で圧巻は、世界三大テノールの一人、プラシド・ドミンゴ(70)が震災から1ヵ月後に歌った「故郷」だろう。震災とそれに伴う福島原発のメルトダウン事故で多くの音楽会が公演を中止したなかで彼だけはあえて来日した。これまで20回以上訪れ、コンサートやオペラ公演を行ってきたドミンゴは3000人の聴衆を前に「 今回は特別に意義の深いコンサートだと思って来日しました。私もメキシコ地震で親戚を亡くしましたので皆さんの気持ちがよく分かります。いつの日か必ず強い気持ちを取り戻せる日が来ることを皆さんも信じていてほしい」と語りかけ、収益の一部と会場で集めた募金を被災地に送った。
そして「プラシド・ドミンゴ コンサート イン ジャパン2011」(4月10日、東京・渋谷NHKホール)のアンコール曲に選んだのが「故郷」だった。「皆さんも一緒に」とソプラノのヴァージニア・トーラとともに日本語で最後まで歌い上げた。コンサートを聴いていた銀行家が後に書いているところでは「2番の『如何にいます父母、恙なしや友垣、雨に風につけても、思い出ずる故郷』の部分では、聴衆はほとんど全員が立ち上がり、涙を流していた。想像を絶する被災と苦難の中で、日本の原風景のような東北の風景を思い浮かべ、私もどめどなく涙が流れた。」

サイトの亭主はさらに1ヵ月後『NHK−BSプレミアムオペラ特集』 で谷村新司のインタビューとともに見たのだが、たどたどしいがさすがというドミンゴの「故郷」だった。もう一度聴きたいと思いYouTubeで動画を見つけたものの、著作権の関係 で削除措置がとられていた。仕方がないので自分が関与しているサーバーに移したものにリンクさせている。こういう「ニュース」といってよいケースはしゃかりきに削除しなくてもいいのではないか。


ドミンゴが歌う「故郷」

◇ ドミンゴ、セクハラを謝罪 ◇

日本ではまさに「ドミンゴさま」といった超人気歌手だが、晩年になってセクハラ騒動に巻き込まれた。当初は「(女性に)歓迎され、同意の上の行為」ととぼけていたが、世界中の「#MeToo」(ミートゥー)運動の前に、ついに降参、謝罪に追い込まれた。「#」(ハッシュタグ)に象徴される、女性の怒りの前には為すすべなかったといったところだ。それを伝える2020年2月のAFP報道から。

セクハラで謝罪に追い込まれたドミンゴ(2019年撮影)
 20世紀を代表する「三大テノール(Three Tenors)」の一人として名をはせ、近年はバリトンへ転向したプラシド・ドミンゴ(Placido Domingo)(79)=2020年で=だが、ついにセクハラ疑惑で謝罪した。

世界的に著名な複数のオペラハウスで監督や指揮を務めてきたドミンゴだが、同氏をめぐっては、少なくとも20人の女性が、無理やりキスをされたり、体を触られたりしたと告発。こうした行為は少なくとも1980年代から続いていたとされる。

同氏はこれまで疑惑を否定。女性らの話は「不正確」で、すべてのやりとりや関係は「常に歓迎され、同意に基づいていた」と主張していた。

だが2020年2月25日、スペインの通信社エウロパ・プレス(Europa Press)に文書を送付して謝罪した。文書には「被害を訴えた人々に、私が引き起こした苦痛について心から申し訳なく思っているということを、知ってほしいと思っている。私の行動の全責任を引き受ける」と書かれている。

さらに「私は過去数か月間、時間をかけて私のさまざまな同僚から受けた申し立てについて熟考した。今になって私は、正直な気持ちを表現することを恐れた女性もいたかもしれないと気づいた。そうすればキャリアに悪影響が出かねないとの懸念からだ。それは私の意図では決してなかったとはいえ、誰であれそのように感じることを強いられるべきではない」と述べている。=AFP



東京放送児童合唱団が歌っている「故郷」の歌詞つきの動画があるので下に紹介します。



◇ ◇ ◇

サイトの亭主の長女が在籍していた縁でNHK東京児童合唱団(旧東京放送児童合唱団)が歌う「故郷」(上)と「紅葉](下)、倍賞千恵子歌う「朧月夜」を紹介する。北朝鮮に拉致された、横田めぐみさんは 「朧月夜」が好きだった。誕生日の10月5日は金木犀(きんもくせい)が咲き出す季節で両親の滋さんと早紀江さんは「今年も又めぐみのいない金木犀香る頃となりました」で始まる手 紙を支援者らに出す。その日にあわせて開かれる「拉致問題を考える国民大集会」では、みんなで「朧月夜」が歌われている。


「紅葉」



紅葉

高野辰之作詞 岡野貞一作曲

秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓や蔦は
山のふもとの 裾模様

渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波に揺られて 離れて寄って
赤や黄色の 色さまざまに
水の上にも 織る錦  
       




「朧月夜」



朧月夜

      高野辰之作詞 岡野貞一作曲

菜の花畠(ばたけ)に 入り日薄れ、
見わたす山の端(は) 霞(かすみ)ふかし。
春風そよふく 空を見れば、
夕月かゝりて にほい淡(あわ)し。

里わの火影(ほかげ)も、 森の色も、
田中の小路(こみち)を たどる人も、
蛙(かわず)のなくねも かねの音も、
さながら霞(かす)める 朧(おぼろ)月夜。
  


「朧月夜」は拉致被害者、横田めぐみさん(1964年生まれ)が好きだった歌で、毎年両親の滋さんと早紀江さん夫妻を迎えて誕生日の10月5日に開かれる「拉致問題を考える国民大集会」ではみんなで歌われている。わざわざ倍賞千恵子の歌唱動画を探しだして上のように掲載したのはサイトの亭主の好みである。彼女の明晰な日本語と清潔な歌い方が好きなのだ。

1914年(大正3年)『尋常小学唱歌 第六学年用』で登場した。文語体の唱歌が消えた中でもこの歌だけは検定教科書になった1948年(昭和23年)以降も小学校6年生の音楽教科書で採用され、平成になっても六年生の教科書(東京書籍)には、「おぼろ月夜」のタイトルで掲載されている。「おぼろ」が平仮名なのは、「朧」の漢字は六年生で学習しないためだ。

詩は1番、2番とも脚韻を踏み、各行4+4+3+3音で構成されている。特に2番の「も」音の繰り返しが音楽的で好きな人が多い。初めの2行に視覚的描写を置き、第3行で体性感覚、聴覚に言及し、最後の1行で締める起承転結の一種ともなっている。作曲の岡野はこれに弱起で始まる3拍子のリズムをあてはめている。

与謝蕪村の俳句「菜の花や月は東に日は西に」に詠われている月は、西の空に日が沈む時に、東の空に見える月で満月に近いが、「朧月夜」の月は、夕日が沈み、空を見上げたとき掛かっている三日月のような形である。

初出「朧月夜」には句読点がある。例えば二番は「里わの火影も森の色も田中の小路を たどる人も蛙のなくねもかねの音も」と読点がある。そして列挙される全ての物が「さながら霞める 朧月夜」なのである。ところが、現在の教科書掲載の「おぼろ月夜」には句読点がない。句読点のメリハリを大事にしたいものだ。




  「春の小川」は、さらさら「流る」か「行くよ」か

今も親しまれている「春の小川」も高野辰之、岡野貞一コンビによる唱歌である。ところが現在では歌詞が二つある。「春の小川は さらさら流る」というのが原作だが、現在では「さらさら行くよ 」というのが主流のようだ。ダークダックスや由紀さおり。安田祥子姉妹は原作に忠実に「さらさら流る」で歌っているようだが、下で紹介したNHK東京(放送)児童合唱団はじめ教育現場で は「さらさら行くよ」である。


              

 【高野辰之の原作の歌詞】

春の小川は さらさら流る。
岸のすみれや れんげの花に、
匂(にお)いめでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如く。

春の小川は さらさら流る。
蝦(えび)やめだかや 小鮒(こぶな)の群に、
今日も一日 ひなたに出(い)でて
遊べ遊べと ささやく如く。

春の小川は さらさら流る。
歌の上手よ いとしき子ども、
声をそろえて 小川の歌を
歌え歌えと ささやく如く。
  
 【林柳波による歌詞】

春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく、
咲けよ咲けよと、ささやきながら。
(咲いているねと)

春の小川は、さらさら行くよ。
えびやめだかや こぶなのむれに
今日も一日、ひなたでおよぎ、
遊べ遊べと、ささやきながら。



元の歌詞で歌っている「春の小川」
(歌は由紀さおり・安田祥子)

この歌は、大正元年(1912年)「尋常小学唱歌(四)」内で発表された。ところろが30年後の昭和17年(1942年)に3年生の教材として移された時に、当時有名な童謡詩人だった林柳波の手で、小学3 年生では文語体をまだ習っていないという理由で口語体に直され、また、3番は削除されたことによる。

林柳波は明治25年群馬県沼田市生まれ。沼田小学校高等科を卒業後 上京し、その後明治薬学校(現明治薬科大学)を明治43年卒業し、母校講師となる。 童謡詩人として知られ、「おうま」( おうまのおやこはなかよしこよし)、「うみ」(うみはひろいな おおきいな)、「ほたるこい」(ほーほーほたるこい)など約千篇の作品がある。昭和49年82歳で没す。

現在、さらに分かりやすく、ということで、1番の「咲けよ咲けよ」部分を「咲いているね」へと変更された歌詞も存在する。スミレやレンゲが咲くのを促す「未来形」だったを「咲いている」と 現在完了形か過去形にしたのでは、小川の風情もだいぶ味わいが違ってくるように、サイトの亭主などは思えるのだが。

小田急線が走る公園に建つ歌碑
「春の小川」と言えば自然に囲まれた田舎の風景を思い浮かべるのだが、実はこの川とは東京のど真ん中、高野辰之の住居があった渋谷の代々木にかつてあった河骨川(こうぼねがわ)のこ とである。東京オリンピックの時、区画整理で川は埋め立てられ、小田急線が走る住宅地となり、その場所には歌碑が立てられている。

現在の「春の小川」の姿


そんなわけで「春の小川」の面影は東京の都市化の波で今では見る影もなく、すべてコンクリートの暗渠の下になったのだが、2015年7月ひょんなことでその姿を垣間見ることができた。

「春の小川の歌碑は上述のように河骨川のほとりにあった河野辰之の家のあたりに建立されている。この場所は現在で言うと代々木公園と代々木八幡神社の間の谷地である。ここから少し下ったところで河骨川は現在の富ヶ谷で宇田川と合流する。「宇田川町」の地名が残るだけで全ては地下である。

垣間見る現在の「春の小川」。渋谷スクランブル交差点の下あたり。
さらに下って西武百貨店のA館とB館の間あたりで渋谷川と合流して渋谷駅前に出る。ここまで1キ程度である。渋谷駅前は現在大規模開発工事が進んでいて2020年東京オリンピックあたりには高層ビルが林立、ほとんどの鉄道は地下に潜るのだが、その工事の一部が7月2日報道各社に公開された。

2019年度開業を目指してJR渋谷駅(東京都渋谷区)東口で進められている新駅ビル(高さ230メートル、47階建て)建設では、地下1階部分を流れている渋谷川の流路を変える工事が行われている。工事は東急電鉄とJR東日本、東京メトロが進めており、地下鉄各線とJRの乗り換えを便利にするため、地下2階に東口地下広場を新設する。これに伴い、渋谷川を160メートルにわたり東へ最大約40メートル移す計画。

写真の場所は名物の渋谷駅前スクランブル交差点あたりの下を流れる渋谷川で、真っ暗のなか証明で照らしだされた「春の小川」のほんの少し面影が見える。

東京・渋谷川の暗渠をたどる 

東京・渋谷を流れる渋谷川はかつて、支流が童謡「春の小川」のモデルにもなったと言われる清流だった。しかしその後の土地整備などで、上流が流路を地下に埋設した暗渠となった。その渋谷川の暗渠約3キロメートルを探った。

新宿御苑を源流とする渋谷川
渋谷川は新宿御苑の池などを水源に渋谷区を流れ、港区では古川と名を変えて最終的に東京湾に注ぐ全長約10キロメートルの川だった。JR渋谷駅東口の稲荷橋広場付近より北の上流は支流を含め暗渠化されて下水道になっている。暗渠は国立競技場、原宿から渋谷へと知名度が高く再開発が進むスポットを通る。

水源の新宿御苑付近から幹線道路の外苑西通りを南に数十メートル歩き、ビル間の小道を入った所、JR中央・総武線の高架橋下に草木に埋もれたレンガ造りの構造物がある。渋谷川はここをくぐって南へと流れている。

高架橋を過ぎ、南に数百メートル進むと暗渠は国立競技場を過ぎ、さらに西側でまさに川跡を思わせる曲がりくねった通り「キャットストリート」に続く。この通りは全長1キロメートルほどで原宿と渋谷をつなぎ、古着店などが並び1990年代にはファッショントレンド「裏原系」の発信地になった。

同地域には、かつて川にかけられていた橋の親柱が多く残る。上流から原宿橋、参道橋、穏田橋と書かれた親柱が行き交う人の中でひっそりとたたずむ。

葛飾北斎の「穏田の水車」
江戸〜明治期の渋谷川には水車が多く、江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎が描いた「穏田の水車」もキャットストリート付近にあった。

渋谷川暗渠は渋谷駅に近づくにつれて様相を大きく変える。渋谷駅東口で渋谷川は百貨店の地下を通っていたが、2019年に東急などが渋谷駅東口地下広場として整備した。渋谷川暗渠も東側に最大35メートル移設された。地下広場からは暗渠が梁(はり)のように通る空間が見える。

渋谷川の開渠部は現在の「渋谷リバーストリート」
暗渠はこの数百メートル先の稲荷橋広場で地上に顔を出して開渠になる。ただ13年の東急東横線渋谷駅地下化までは、川の西側には高架橋、東側にはビルが背を向けて建っていた。開発に携わった東急の担当者は「スクランブル交差点のある渋谷駅西口に比べると特色がなかった」と話す。

高架橋の撤去後は西側は18年に複合施設の「渋谷ストリーム」、遊歩道の「渋谷リバーストリート」として整備された。上流の下水道化後、水流がほとんど消えていた川に、下水の高度処理水を壁面から流して水も取り戻した。遊歩道周辺には飲食店とイルミネーションが並び、川面に光を当てている。暗渠をたどると、川の痕跡や地形から街の来歴が見える。(2020/12/26 日本経済新聞 電子版)



「日の丸の旗」


 (一)
  白地に赤く 日の丸染めて ああ美しや 日本の旗は

 (二)
  朝日の昇る 勢い見せて ああ勇ましや 日本の旗は

 (三)
  青空高く 日の丸あげて ああ美しや 日本の旗は  (戦後に改編)

野と岡野のコンビにより、1911(明治44)年、『尋常小学校唱歌(一)』に発表された。大正期から太平洋戦争当時にかけてさかんに歌われ、数多くの替え歌も作られた。1941年の『ウタノホン 上』から、歌詞が「ああ美しい」「ああ勇ましい」と口語調に変更され、戦後には「朝日の昇る、勢い見せて」のところを「青空高く 日の丸あげて」と、時代に併せようと作り変えられた。

  

優れたデザインの日章旗 使い始めは遣米使節一行

「日の丸」「日の丸の旗」ともに通称で、正式には「日章旗」という。オリンピックや国際会議の場で万国旗と並んでいるのを見る時、シンプルで、よく目立ち、見るからに美しくて、しかも黄金率(比)まで計算されたすばらしいデザインだと思うのは私だけではあるまい。

戦後しばらく、日の丸を掲げるのがはばかられる風潮があったが、父は祝祭日には玄関先に真っ先に掲げたものだ。その息子は日の丸にさしたる思い入れもなく青春時代を過ごしたが、のち新聞記者になり、あるとき企画で「デパートでは日の丸はどこの売り場にあるか」というルポを書いた。結果は惨憺たるもので風呂敷売り場やひどいのはタバコ売り場というのもあった。

今でも似たようなもので、応援用のものはスポーツ売り場、 端午の節句などの祝い用はおもちゃ売り場あたりだろう。デパートには今でも専用の売り場が無い。さがすのに苦労するほど数は少ないものの「徽章店」に行った方がきちんとしたものがある。

日の丸を国旗としたのは1860(万延元)年の遣米使節一行である。アメリカ領事からの助言だろうが、出発にあたり幕府へ「使節送迎ノ米軍艦ニ皇国旗章建設新見豊前守正興外二人ノ申稟」というのを提出している。

「亜墨利加国へ渡海之節乗組候軍艦之儀者素より・・・」と以下、現代文にすると、「アメリカへ行く際に乗ります軍艦についてはもとより大統領の厚意によるものであり、船全体の旗としてはもちろんアメリカの旗を立てるべきではありますが、アメリカの国旗のみでは日本の使節が乗っている目印がなく、日本国として不体裁になりますから、日本の使節が乗っている印の旗をつけておくのがよろしいかと思いますので、日の丸の旗を国旗として立てるようにしたく、私どもで協議いたしましたので、この段申し上げます。  新見豊前守     村垣淡路守 」

申請が通ってさっそく使節は寸法書きなどをしたためて日の丸の旗を業者に発注。代金として「九両一分永七十五文」を支払った。この時点で、従来日本船籍であることを示す船印に過ぎなかった日の丸が、日本という国を象徴する国旗(船以外にも掲げる)に格上げされたと言える。こうして使節が乗ったポウハタン号にも、サンフランシスコまで随行した咸臨丸にも日の丸が掲げられ、また、この旗のことがアメリカ人によって使節団より早く本国に伝えられ、アメリカではたくさんの日の丸を用意して待っていた。

使節一行が泊まったホテルにも通りにも日の丸が掲げられた。
こうして、アメリカに到着した遣米使節一行は行く先々で日の丸の旗で迎えられた。 パナマ鉄道では使節一行を乗せた機関車に日の丸と星条旗をつけて走った。ワシントンでは黒山のような人々の歓迎で、その頭上には日の丸が翻り、、ニューヨークではブロウドウェーを大行進してメトロポリタンホテルに到着したが、通りをまたいで大きな日の丸が飾られ、ホテルの窓は各階に日の丸と星条旗が翻っていた。(佐藤藤七「渡海日記」 )   

「日の丸」の掲揚始めはこうしたものだったが、そもそも「日の丸」は古来、武将や軍団が勝手に己の目印として、旗や扇などに使っていたものである。古くは、壇ノ浦の戦いでは、源氏が掲げた旗は「白地に赤」の現在の日の丸だったし、一方の平家が掲げていたのは、赤地に白の日の丸だった。

日本で最初に「日の丸」を掲げた国産帆船
「鳳凰丸。帆の中黒は幕府の旗印。
江戸期に入り、幕府は寛文十三(1673)年に「城米廻船条例」を発して、天領から江戸へ御城米を運ぶ幕府の御用船に「帆に中黒の線」を入れたり「白地に日の丸」の旗を使い、幕府の旗印としていた。こうした経緯があって後、上述のように遣米使節一行のアメリカ行きを機会に、「日の丸」が日本国の「総旗印」つまり国旗となっていった。日本で最初に日の丸をつけて走った船は、幕府の命によって浦賀で中島三郎助らが建造した洋式帆船「鳳凰丸」で、帆には幕府の旗印である「中黒の旗」が掲げられていた。



「春が来た」

 
 春が来た 春が来た どこに来た
 山に来た 里に来た 野にも来た

 花がさく 花がさく どこにさく
 山にさく 里にさく 野にもさく

 鳥がなく 鳥がなく どこでなく
 山でなく 里でなく 野でもなく
  

「春が来た」は今でも、早春になると自然に日本人が口ずさむ歌である。「故郷」と並んで日本人に深く浸透している。春が来た→どこに?→山に、里に、野に→そして、花が咲く、鳥が鳴く、とリフレインも単純で、誰も一発で覚えられる。「名曲」だと讃えた人がいることを下記のコラムで知った。

 (略)
◆「春が来た」は、明治末以降に文部省の唱歌となった。
  東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授だった高野の詞に、同僚の岡野貞一が曲をつけた
◆<春が来た喜びをうまく表しているが、それにしてもこんなに大らかに歌い上げた手腕は
  見事>▽(『定本 高野辰之』)。高野の詞をこうたたえたのは唱歌に詳しかった国語学者の
  金田一春彦だ(読売新聞 編集手帳 2020.3.23)

◇ ◇ ◇

それにしても、なぜ政府が唱歌をつくる必要があったのか。私は見なかったがテレビドラマでも放送された「唱歌誕生-ふるさとを創った男」(文春文庫)を著した作家の猪瀬直樹さんによると、「五音音階といって、ドレミファソラシドのファとシが日本にはなかった。そういう発音がないのだから、西洋の歌は日本人には歌えなかった。そこで、文部省はなんとか西洋の音楽を、歌えるようにしたいということで作ったのが文部省唱歌。だから、二人による唱歌のうち低学年用の<春がきた>と<春の小川>にはファとシが入ってなくて、高学年になるにしたがって、七音音階ができるように、ファとシが入るようにつくってある」という。

日本にはなかった西洋からの借り物の音階でつくられた「故郷」がなぜこうも日本人の琴線に触れるのか。平成元年NHKが行なった「日本のうた ふるさとのうた」100 選にはこのコンビによる唱歌はなんと4曲も選ばれている。歌詞をみると、日本の原風景である里山(さとやま)が描かれているので郷愁をかきたてられることもあろう。親を思い、友を偲ぶ万人共通の懐かしさに心が揺さぶられるのかもしれない。私は東京・板橋区常盤台で生まれ、大阪の南郊、南河内郡狭山町で育った。どちらも田舎の風景を持つところだが、故郷というとき、この二つの地は入っていない。疎開した山形県・米沢の風景や学生生活を送った札幌のほうがイメージが近い。故郷とはなんだろう、と思う。

高野辰之
作詞者・高野辰之について 
 高野は学歴に恵まれず(長野師範卒)、エリートコースを歩めなかったが、苦学して大著『日本歌謡史』を著し、その功績が認められて、のちに東京帝国大学から文学博士号を授与される。国語、国文学研究に功績を残し、童話作家としても活躍した。「末は博士か大臣か」の時代、歌に描かれた「こころざしを はたして いつの日にか 帰らん」の通り、人力車で、町中の人に迎えられて実家に帰る一シーンも実現した。大正14年帰郷した彼を、村人達は村から4Km離れた替佐駅まで出迎えたという。

昭和18年、高野は長野県下高井郡野沢温泉村の別荘「対雲山荘」に移り文筆業に専念し、晩年を過ごし亡くなった。終焉の地を記念して入口に歌碑がある。野沢温泉村には、その暮らしを偲ぶ施設として平成2年10月に「おぼろ月夜の館」ができ、著書や遺品、復元された書籍などが展示されている。書籍や書画の収集家としても知られ、収集品は「斑山文庫」(はんざんぶんこ)と呼ばれ館の別称にもなっている。高野は斑尾山のふもとの村で生まれたので号を「斑山」とし、東京・代々木の邸内に建てた別棟の書庫を「斑山文庫」と呼んでいたことにちなむ。

高野が通った故郷の永江学校は長野県下水内郡永江村にあったが、その後豊田村、そして今は中野市に編入され、平成3年にここに高野辰之記念館が建てられた。

高野は飯山の学校に通い、真宝寺に下宿した。その寺というのが、島崎藤村の『破戒』に登場する寺で、高野はモデルとされる住職の三女 つる枝と結婚した。『破戒』では住職が好色漢として描かれたため地元では一時、問題になった。高野は娘婿という立場で藤村に抗議文を送りつけた一幕もあったという。

高野辰之(明治9.4.13〜昭和22.1.25)
1876年   長野県下水内郡(しもみのちぐん)永江村(のち永田村、
        現中野市豊田大字永江1809)に生まれる。
        下水内高等小学校(現 飯山市)へ入学。家から往復16qの道を
        歩いて通った。冬は、飯山の寺に下宿。
        長野県尋常師範学校(現 信州大学教育学部)に入学。「信濃の国」の
        作詞者、浅井冽の人柄にひかれ、国語と習字を専攻した。
        卒業後、師範学校の教壇に立つ。
1898年  飯山の下宿先の真宝寺の住職の三女 つる枝と結婚。上京、二年後に帰郷。
1902年  再び上京し、文部省国語教科書編さん委員。
1909年  文部省小学校唱歌教科書編さん委員。
1910年  東京音楽学校教授となり「日本歌謡史」を講義。
1925年  論文「日本歌謡史」で東京帝国大学から文学博士号を受ける。
1928年  帝国学士院賞を授けられる。天皇・皇后両陛下にご進講。
1935年  勲三等瑞宝章を受ける。
1943年  長野県下高井郡野沢温泉村の別荘「対雲山荘」に隠棲する。
1947年  対雲山荘にて永眠。71歳。

岡野貞一
作曲者・岡野貞一について 
岡野貞一(1878年2月16日 - 1941年12月29日)は、鳥取県邑美郡古市村(現・鳥取市古市)で生まれ、実父を幼少期になくし貧困の中で育つ。少年時代を教会の讃美歌に親しみながら過した。姉の影響で熱心なクリスチャンで「朧月夜」のは、讃美歌に影響されているといわれている。

1892年に東京音楽学校(現在の東京藝術大学)の第二代校長である村岡範為馳が本人の郷里でもある鳥取で行った講演に影響され、同校に入学、1900年に卒業。その後、1906年に東京音楽学校助教授、1923年に教授(声楽)となり、1932年に退官するまで音楽教育の指導者の育成に尽力した。1918年より文部省編纂の尋常小学唱歌の作曲委員であった。約40年にわたり東京の本郷中央教会(明治・大正期には本郷中央会堂と呼ばれた、カナダメソジスト系の教会)の教会オルガニスト(聖歌隊も指導)であった。1941年、日本大学附属病院で死去。63歳没。

現在、鳥取市鹿野街道に面した醇風小学校の前に「朧月夜」の歌碑がある。岡野が住んでいた頃は、この場所は牧場で、菜の花畑が広がっていて、久松山の上に月がかかる風景があったといい、幼い頃の思い出に望郷を覚えて曲想を練ったのではないかといわれている。彼の作曲になる歌に『桃太郎』『児島高徳』などがある。 文部省唱歌の作詞・作曲者は長らく公表されず、著作権が云々されるようになった昭和40年台にやっと原作者名が判明し、高野辰之や岡野貞一の名が世に出た。

《唱歌と童謡、どこが違うか》

2011年1月17日朝、阪神・淡路大震災から16年というので淡路島の追悼式場からNHKが中継していたが、アナウンサーが「犠牲者を悼んで、会場から童謡『故郷』の合唱が…」と言っていた。NHKの現場もデスクももはや唱歌と童謡の違いも分からなくなっているんだと再認識した。

今ではNHKばかりでなく、唱歌も童謡も区別がつかない世代が増えた。この二つははっきり違うのである。NHKアナウンサーのようにこの二つを混同することは、鈴木三重吉、北原白秋、野口雨情、西条八十など大正期に童謡運動を繰り広げた人たちの志を無にすることになるのだ。
広辞苑にはこうある。

 唱歌(しょうか) 旧制の小学校の教科の一。1941(昭和16)年から音楽と改称。主として明治初期から第2次大戦終了時まで学校教育用に作られた歌。「小学校唱歌集」。

 童謡(どうよう) 子どもが作って口ずさむ歌、または詩。童心をそれにふさわしい言葉で表現した、子供のための歌、または詩。民間に伝承されてきたものを「わらべうた」という。大正中期から昭和初期にかけて北原白秋らが文部省唱歌を批判して作成し、運動によって普及させた子どもの歌。

つまり、唱歌は文部省が作ったか選定した歌であり、童謡は民間の詩人、音楽家が作った歌なのだ。童謡には個別の作者があるが、唱歌にはない。唱歌集には個別の作者名を書いたものもあるが(このホームページもそうだが)、それは戦後研究者が調査して突き止めたものであって、元来は作者名は公表されていないのが普通だ。また、唱歌の歌詞はおおむね文語であり、童謡は口語が多いが、唱歌は子供を教育する手段だったから、文部省の”お上”意識が反映しているとも考えられる。童謡は子供と同じ目線に立っているから分かりやすい口語が多いという特徴があげられる。

教科書から消えたり、復活したりを繰り返した「唱歌」

紹介した二人のコンビによる唱歌は、6つほどわかっているが、いずれも戦争を挟んで教科書から消えたり、復活したりしてきた。そのあたりの事情を2019年11月20日の産経新聞から引用する。

◇戦意高揚にマイナス、と外された「故郷」◇

「尋常小学唱歌」第六学年用
『故郷』『朧月夜』が収録された
「尋常小学唱歌」第六学年用(東書文庫蔵)
 『故郷』の初出は大正3(1914)年、文部省の「尋常小学唱歌」第六学年用である。収録19曲のうち、現在まで残っているのは、他に『朧月夜(おぼろづきよ)』『我(われ)は海の子』=いずれも文部省唱歌=くらい。いずれも「戦争」を乗り越え、100年以上にわたって歌い継がれる名曲となった。

 大正5年、教師向けに発行された「尋常小学唱歌新教授精説」(東京宝文館)の『故郷』の項にこうある。《他教科(※修身、国語など)にも季節にも関係のない教材である》とした上で、小学6年を終えようとしている児童には、他郷で学ぶ決心をしていたり、実業(商工業)に就く計画がある者もいるだろう−と指摘。その折に故郷や父母を想(おも)う歌なのだとした。

 当時の社会や教育環境がうかがえる記述だ。現代では『故郷』を大人向けの歌とする向きが多いが、当初は「子供の歌」でもあったということが分かる。

 ところが、戦時下に皇民化教育が強化され、小学校→国民学校となり、唱歌→芸能科音楽と名称が変わった時期に一新された音楽教科書で、6年生用の「初等科音楽四」(昭和17年)から『故郷』は消えた。

 『朧月夜』や『我は海の子』が残ったのに『故郷』が外されたのは、この歌があまりに心に響き、ノスタルジックな感情をかき立てることが戦意高揚には「マイナスになる」と判断されたことが理由らしい。

 終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の方針を受けて、軍国主義や神道などに関わる歌が排除されたり、『我は海の子』などの歌詞が削られたりしたときも、ベースとなる教科書は「初等科音楽」だったので『故郷』は載っていない。復活したのは、22年に文部省が内容を一新して編纂した「六年生の音楽」である。逆に『我は海の子』は、ここで一旦、消えた。

 一方、『故郷』と同じ、高野作詞、岡野作曲による『朧月夜』は「尋常小学唱歌」(大正3年)の初出以来、現在に至るまで、官民の教科書を問わず、ほぼ一貫して掲載されている。

 「尋常小学唱歌」→「新訂尋常小学唱歌」(昭和7年)、『故郷』が消えた戦時下の「初等科音楽」でも生き残る。さらに、終戦後のGHQ主導の墨塗り教科書→暫定教科書(21年)の時期も外されなかった。

 22年の「六年生の音楽」→民間の検定教科書時代に入っても掲載され続け、現在も、小学6年生用の音楽教科書を発行する2社ともに収録している。

 やはり高野作詞、岡野作曲の『春の小川』なども同様のケースだが、こちらが歌詞を削ったり、改変されたのに対し、『朧月夜』は歌詞にも手を加えられていない(※現行教科書では題名を『おぼろ月夜』とし、〈里わの火影(ほかげ)=村のあたりの明かり〉など難解な言葉には注釈がある)。

 郷里・長野の里山の光景をうたったとされる高野の詞は文語調だが、まるで日本画を見ているような光景が浮かぶ。『故郷』と同じ4分の3拍子で刻む岡野の美しいメロディー。2つの歌は文部省唱歌を代表する名曲と言えるだろう。

 現在の小学校音楽の「歌唱共通教材(文部科学省の学習指導要領に定められた授業で取り扱う歌)※別表参照」 を見れば、これらの歌以外にも、高野、岡野の2人がつくった名曲(いずれも文部省唱歌)が、学年ごとに並んでいる。

 『春が来た』は、明治43(1910)年の文部省発行の尋常小学読本唱歌に初めて収録。『日の丸の旗(ひのまるのはた)』(現『日のまる』)は44年の尋常小学唱歌第一学年用に、『紅葉(もみじ)』は同二学年用に、それぞれ掲載。前述の『春の小川』は同四学年用に初めて掲載された。

 「尋常小学唱歌」(44年〜発行)が編纂されたとき、高野は歌詞の委員、岡野は楽曲の委員だった。前年の「尋常小学読本唱歌」から引き継いだ歌を除き、新作としたため、歌詞の委員には他に、吉丸一昌(かずまさ)ら。楽曲の委員は他に、東京音楽学校(現東京芸大)教員で、「…読本唱歌」以来の上真行(うえさねみち)、小山作之助らである。

 歌の制作は、各々(おのおの)が担当する詞・曲を持ち寄った上で、最終的に合議で決定されたという。著作権は文部省に帰属する形で、個人名は出さない、ということとなった。さまざまな史料によって、可能性が濃厚な作者の特定が進むのは戦後もかなりたってからだ。

 これら名曲が次の100年先も歌い継がれるよう、教科書に掲載され続けることを願いたい。(文化部編集委員 喜多由浩)

                    ◇ ◇ ◇  

【小学校の学年別歌唱共通教材】

 (☆は高野辰之作詞・岡野貞一作曲の歌)

 1年「うみ」 「かたつむり」 ☆「日のまる」 「ひらいたひらいた」
 2年「かくれんぼ」 ☆「春がきた」 「虫のこえ」 「夕やけこやけ」
 3年「うさぎ」 「茶つみ」 ☆「春の小川」 「ふじ山」
 4年「さくらさくら」 「とんび」 「まきばの朝」 ☆「もみじ」
 5年「こいのぼり」 「子もり歌」 「スキーの歌」 「冬げしき」
 6年「越天楽今様(えてんらくいまよう)」 ☆「おぼろ月夜」 ☆「ふるさと」 「われは海の子」

  『信濃の国』

県庁にある歌碑
長野県庁前には「信濃の国」の歌碑がある
この歌はもっと不思議だ。歌えない長野県人はいないと言われている。2015年の県の調査では”1番だけ”なら、なんと「79・4%」の県民が歌えるという。
わたしは週末を八ヶ岳で過ごすことが多くなって、信州の山や川にひかれるとともに、この 県に愛着を持ちはじめた。固定資産税を納め、村民税も払い、県民に近いと思ったこともあるが、「信濃の国」は出だしくらいしか知らない私は失格ということになる。小学校の運動会のよ うな公式行事、地域の行事で必ず歌われる。県外に出てもクラス会、同窓会、県人会など必ず県歌「信濃の国」が歌われるそうだ。
2011年4月スタートのNHK連続テレビ小説「おひさま 」は長野県安曇野が舞台で地元が放映効果を期待しているようだが、その3,4回目に主人公が小学校の遠足に行くシーンで早くも歌われていた。他県の人は何の歌かわからなかったのではな いか。

上で「長野県人は全員歌える」と書いたが、そうでもないらしい。2015年秋、長野県が県民1202人を対象に調査(回答は794人)したところ、「全部または1番を歌える」と答えたの は79.4%、「部分的に歌える」を含めると90.7%。一方、「メロディーは知っているが歌えない」は7.4%、「メロディーも知らないので歌えない」は1.4%で、歌えない 人は1割弱だった。

「30代に歌えない人が目立った。ほとんどの小学校で県歌を教えることが県民への高い浸透率を支えているが、学校で県歌を教えない時期があったとみられる」と悔しそうに分析し ている。(毎日新聞2016,1.5)

「信濃の国」( 浅井 洌・作詞、 北村 李晴 ・作曲)=リンク先は県のホームページ。歌詞の意味や来歴、サウンドマークのクリックでメロディーが出る=という歌を知る前に、信濃という土地の歴史を知らねばならない。長野県は県内を東信 (佐久市・小諸市・上田市・南佐久郡・上田市など)、北信(更埴市・須坂市・中野市・長野市など)、中信(松本市・塩尻市・大町市・北安曇郡・木曽郡など)、南信(諏訪市・岡谷 市・茅野市・伊那市・駒ヶ根市・飯田市など)の4つに分けることが多い。ところがこれらの市町村はみな群雄割拠時代そのままにまとまりがないのだそうだ。

張り合う松本と長野
どこの県もだいたい中心になる昔の「藩」があるのだが、この地方は一度も統一されたことがない。徳川時代でも幕府や社寺の直轄領がモザイクのように入り組んでいて独自の文化を 育んできた。「信州合衆国」といわれるほど独自性が強い。中でも松本と長野の張り合いは有名で、何か新しい施設が作られるたびにこの2つの町は激しい誘致合戦を繰り広げてきた。

たとえば、長野の師範学校に対する(旧制)松本高等学校 、日本銀行支店( 県庁所在地以外に支店が置かれたのは松本と小樽と下関ぐらい)、陸軍の歩兵連隊の誘致、鉄道の誘致( 信越線は長野を通るが松本へは中央線からの支線篠ノ井線)・・・戦後になっても同じで、最近のジェット空港や 新幹線,高速道路,国民体育大会などで繰り広げられた。 オリンピックは2本の高速道路と長野新幹線をもたらしたが、ほとんどの会場は長野側だったから、松本はそっぽむいていたという。

だいたい、国立大学は「信州大学 」だし、地方銀行は「八十二銀行」(むかし銀行に番号をつけた。今残っているのは知る限りでは第一勧業銀行と三重県の百五銀行くらいか)、 地方新聞は「信濃毎日新聞」で県内最初の民間放送局は「信越放送」。こういうのは他県では県か県庁所在地の名前がつくのが普通だろう。長野や松本の名前をつけることを互いに 許さないからこうするしかないという。いやはや。

松本と長野の「張り合い」の原因は何か。長らく信州の政治、文化の中心は松本だったのが、善光寺の門前町に過ぎなかった長野が県庁所在地になった。長野の 名を呼ぶのがシャクだという意地が、上の述べたような数々の名称につながり、いまなお多くの県民は「長野県人」とは言わなで、必ず「信州人」というのである。「信州人」の自尊心はかなりのもので、 道路を走っているとあちこちに「県外車の事故多し」と書いてある。事故を起こすのはよそ者というのである。

こういう背景を知ってから「信濃の国」をみるとわかってくる。この歌が長野県歌に制定されたのは、戦後もだいぶたった1968(昭和43)年のことだ。はるかそれ以前から歌われ ていた。「県歌」になったから県民に広まったということではない。だいたい県歌はどこの県にもあるが、だれも知らないのが普通だ。

北村季晴
浅井洌
この歌は当初、小学校唱歌として明治32年に発表された。作詞者は当時長野県師範学校(現:信州大学教育学部)の教諭であった浅井洌(れつ)、作曲は同校教諭の北村季晴(すえはる)。 教員の団体である信濃教育会(いまも活動していて長野県が教育県といわれるゆえん)の委嘱を受けてのことだった。 「信濃の国」は、1900年(明治33)秋の師範学校の運動会で女子部生徒の遊戯用として歌われた。それ が、たちまち県内に普及するのは、先生がみんな長野師範出だから。教員たちが “新しい音楽教材”として赴任校に持ち込み、県内の小学校の運動会で必ず演奏される歌となっていったのだそうだ。 歌詞を見ると、山、川、産物、郷土の偉人がまんべんなく選ばれているのがわかる。一体性のない県民を統合するために必要な小道具だったのだ。

2015年、北陸新幹線が金沢まで開通した。沿線各駅は喜びに湧いたが、長野駅の発車音は堂々「信濃の国」である。


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「信濃の国」を歌っている動画があるので紹介する。


 

ただ、八ヶ岳の東の山腹にいる私としてはどうして歌詞に「八ヶ岳」がないのか理解に苦しむ。南北アルプスの山がつぎつぎ歌われる中で八ヶ岳は一度も出てこないのだ。ひがんでいうのではないが、信州の中でもこのあたりはさらに「無視」されているようだ。

天気予報を見てもそうだ。長野県は予報区が北部、中部、南部に分かれている。このあたりは「中部」に分類されているが、同じ中部といっても真ん中に八ヶ岳があるのだから、西から変わる気象は山の向こう側の中部とは当然変わってくる。中部?どこの話だ、といったところ。気温だってぜんぜん違うのに、NHKの気象情報で、一番近くで読み上げられるのは軽井沢の気温ときている。仕方がないので山梨西部の予報と気象衛星の写真で自己流の予報をするしかない。このあたりの人も長野や松本より、もっと近い山梨県甲府方向を向いているようだし、「信州合衆国」とはよくいったものだ。

よそ者の私ですらバラバラだと感じる県民性をまとめるために歌がはたした役割は大きい。

作詞100周年を記念して平成12年には
「信濃の国」の切手が発売された。
▽1948年(昭和23)の県議会で分県問題(南部独立運動はこの県では何度となく起きている)で紛糾したとき、傍聴していた県民から「信濃の国」が湧きおこり、とうとう沙汰止みになったという。

▽1953年(昭和28)に浅間山麓を米軍の演習地にする計画が持ち上がったとき、ほとんど全県民あげて反対した。軽井沢中学校体育館で開かれた県民大会の最後に歌われたのが「信濃の国」であった。結局、この県民あげての運動が実を結び、浅間山麓を演習地として使用する計画は白紙撤回された。

▽1963年(昭和38)新県庁舎の建設と松本諏訪新産業都市の指定をめぐって,県議会においてまたも南北信の議員の主張が激しく対立した。その係争が最高潮に達したとき,議場のどこからか「信濃の国」がうたわれた。まもなく,その歌声は全員の大合唱に拡大されていった。この歌声に感激した県会議員たちは,激しい対立に終止符をうち,政治的な和解に持ち込んだ。

▽1994年(平成6年)第76回夏の高校野球6日目の甲子園。長野県代表の佐久高校と、福井代表の敦賀気比高校の対戦は5回まで0対0の投手戦。このとき3塁側・佐久高校の応援団席から突然、県歌「信濃の国」の大合唱が始まった。校歌でも応援歌でもない。中継しているNHKのアナウンサーも、絶句しているうち、5点が入り、佐久高校は、長野県勢としては54年ぶりにベスト4進出を果たした。

こうなると神がかり的効果だが、とどめは1998年2月の長野冬季オリンピックの開会式だ。日本選手団が入場するとき会場で湧き起こった大合唱。そのとき合唱されたのが「信濃の国」である。長野県限定のこの歌が国際的になったのだ。なんとも不思議な歌ではないか。

「信濃の国」県歌制定50年で6700人が斉唱

「信濃の国」が県歌に制定されてから2018年5月20日で50周年を迎えた。これを記念して松本市のアルウィンで行われたサッカーJ2・松本山雅FCの試合前には、県主催のイベントも 開かれ、スタジアム全体で1番を斉唱した。

「信濃の国」50周年
「信濃の国」50周年で6700人が歌った
イベントでは、地元の子どもたちが、信濃の国をバンド演奏し、曲に合わせたダンスを披露した。下條村出身のタレント峰竜太さんらが県歌に対する思いを述べたメッセージも上映。 阿部守一知事は、詰め掛けた約6700人のサポーターを前に「今後100年に向け、多くの皆さんに歌い継いでもらいたい」と呼びかけた。

信濃の国は、1899年に県師範学校(現・信州大教育学部)の教諭浅井洌が作詞し、翌年、同僚の北村季晴が作曲した。風土を伝える歌詞は県民に親しまれ、県が1968年に県章など を定める際に、併せて県歌に決めた。5月20日は県報で県歌として公告された日だ。県の2015年の調査では「1番」が歌える県民は79・4%に上る。

県では今後も歌い継いでいこうと「5月20日」を「『信濃の国』県歌制定の日」として日本記念日協会(佐久市)に登録した。


 『千曲川』

春先、雪解け水が流れ込む県境あたりは、
濁流で上流よりはるかに荒々しい面を見せる。
=産経新聞から
山小舎のあるところからすぐ近く、川上村にある甲武信岳に端を発し(前の項「千曲川源流を訪ねる」参照)信州のかなりの部分を南北に蛇行しながら、やがて信濃川と名前を変えて標高差約1500メートルを下り、日本海にそそぐ日本一の大河が千曲川だ。私は日ごろ左岸を行き来しているが、かなり上流にあたるので大雨のときなど、岸辺が削られる荒々しい面も見せる。春に雪解け水が流れ込む県境あたりは濁流のような色と水量だ。この時期上流の方がずっと優しい流れだ。

ここで獲れる鮎は日本で指折りの味だ。つまり苔がいいということだが、毎年夏味わう塩焼きを楽しみにしている。そういうこともあるが、だんだん好きになり日本海までカヌーかボートで下りたいとも思う。そのとき口ずさむのは「千曲川」だと勝手に決めている。島崎藤村のほうではなく、五木ひろしの方だ。それほどこのあたりにぴったりしている歌謡曲なのだ。

もちろん下敷きは島崎藤村の「千曲川旅情の歌」だ。下敷きというよりむしろこちらのほうが正統というべきかもしれない。学校で習うのはこちらの方だし、多くの人が曲 を付けている。中でも弘田龍太郎(明治25年6月30日〜昭和27年11月17日)作曲の「小諸なる古城のほとり」が有名だ。鮫島有美子の名唱があるので下に動画を紹 介する。聴いて分かるように立派な歌曲ではあるが、いかんせん難しくて私にはなじまない。



「小諸なる古城のほとり」

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ

緑なす繁縷(はこべ)は萌えず 若草も籍(し)くによしなし

しろがねの衾(ふすま)の岡辺 日にとけて淡雪流る

暖かき光はあれど 野に満つる香りも知らず

浅くのみ春は霞みて 麦の色わずかに青し

旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間もみえず 歌哀し佐久の草笛

千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ

濁酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む


高校1年のときの国語の先生は、まず暗記しなさいという人で、最初に全文諳んじたのがこれだった。ついで「源氏物語」「奥の細道」「枕草子」の出だし・・・とかなりの古典 を覚え、これはこれで役にたった。だからこの地に来てまず藤村の詩が口をついて出た。しかし、現物を前にすると「はこべ」も敷くような「若草」もさがすに苦労する。「旅人」も 「佐久の草笛」も「濁り酒」もない。どうしても歌謡曲「千曲川」(作詞:山口洋子、作曲:猪俣公章)の方がしっくりするのである。


♪水の流れに 花びらを
♪そっと浮かべて 泣いた人
♪忘れな草に かえらぬ初恋 (こい)
♪想い出させる 信濃の旅路 (たび )

♪明日はいずこか 浮き雲に
♪煙たなびく 浅間山
♪呼べどはるかに 都は遠く
♪秋の風立つ すすきの径よ

♪一人たどれば 草笛の
♪音いろ哀しき 千曲川
♪寄せるさざ波 くれゆく岸に
♪里の灯ともる 信濃の旅路よ

◇ ◇ ◇

作詞家であり、文筆家でもある山口洋子は、五木ひろしのプロデューサーでもあった。エッセーに書いている。
「この歌には先に曲があった。歌詞もついていた。ついていたというより星野哲郎先生作詞による『笛吹川』という嫋々たる詞がまずあって、それに故猪俣公章氏があとから曲をつけた作品なのだ。のみならず歌い手も発売日も決定していて、順調にいけばそのまま川中美幸さんの再デビュー曲になるはずであった。たまさか猪俣氏のピアノで曲を耳にするや、私はこれこそ自分がいままで待っていた曲だと瞬間的に思った。メロディーに日本のふるさとの色あいがあり、常日頃から恋してやまぬ信州の風景がはるばると広がる。しかも大好きなメジャーワルツ。私はその場で強引に曲を頂き、おまけに五行詞だったところを頼みこんで四行に短くしてもらった。家で聴くとこれぞ(藤村が描く)信州、千曲川の情景以外の何ものでもないと感じた。日本の原点、万人のふるさとへの回帰」

私は後年、五木ひろしの結婚式に出席した。親しいわけではなく、新聞社編集局で芸能関係を所管する役職にいただけで、やめたかったが「芸能ニュースに書くから出てくれ。引き出物は写真に撮るから社に持ち帰ってくれ」といわれた。新婦は誰もが知っている女優ということだが私は名前も知らず、新高輪プリンスホテルの飛天の間に行った。新聞社でもお包みをするのかと聞いたら、芸能界ではそれが常識で相場はこのくらいだと担当記者が5本の指を見せた。私にとっては親戚の結婚式も上回る過去最高額である。私のテーブルの周りを見ても誰一人として見覚えがない。巨人軍の選手が記念写真を撮るシャッター係をさせられた。王選手がいた。ひな壇の両親をみて彼が在日であることを知った。この歌でも歌ってくれるかと思ったがそれもなく、バツのわるい2時間を過ごした。

1975(昭和50)の紅白歌合戦では、五木ひろしがこの歌でトリをとった。1998年のNHKテレビ「1000万投票BS20世紀日本のうた」で発表された上位100曲中45位(唱歌・歌謡曲などのジャンル問わず)にはいっているというからスタンダードナンバーといっていいのだろうが、なにより信州のこの地にふさわしい曲なのである。

 『早春賦』

この項は「信州ゆかりの不思議な歌三つ」というタイトルで書き始めた。10年ほどたってから、どうしても『早春賦』(そうしゅんふ)に触れずにはいられなくなった。そこでタイ トルも「信州ゆかりの不思議な歌」と変えて、同じ作者による『故郷を離るるう歌』とともに、美しくまたほれぼれする日本語の世界を紹介する次第。歌うのは日本語の発音がきれいな倍賞千恵子のものにした。まずその歌 詞。

(動画は倍賞千恵子歌う「早春賦」)


「早春賦」
作詞:吉丸一昌、作曲:中田 章

春は名のみの   風の寒さや
谷の鶯         歌は思えど
時にあらずと     声もたてず
時にあらずと     声もたてず

氷融け去り    葦は角ぐむ
さては時ぞと    思うあやにく
今日も昨日も     雪の空
今日も昨日も     雪の空
 
春と聞かねば   知らでありしを
聞けば急かるる   胸の思いを
いかにせよとの  この頃か
いかにせよとの  この頃か

角ぐむ
春先の木や草の芽が
こういうふうに膨らんできたときを「角ぐむ」
文語体だが、それほどむずかしくはない。小学校で歌った時は「葦は角(つの)ぐむ」がよくわからないまま歌っていた。今になって辞書を見ると「つのぐむ」は 「草木の芽が角のように出はじめる。葦(あし)・荻(おぎ)・薄(すすき)・真菰(まこも)などに多くいう」とある。「ぐむ」は動詞で「内部の力や物が外に形をとっ て現れる動き」をいう。

八ケ岳の山墅の周りはススキに取り囲まれているのだが、平地と違って「つのぐむ」のは6月の末、ほとんど夏場になってからなので、もはや早春の趣はない。代 わって身近な例で言えば「新芽が角のような形に芽をだす」のは、タラの芽だろう。早春、というイメージはこのあたりではGW前後の雪解けの後に一番に目にす ることで、タラの芽の天ぷらにイメージが直結する。もう少し暖かくなるとススキはもちろん、ナナカマド、カラマツ、レンゲツツジのつぼみがいっせいに、それ こそ「角が生えたように」膨らんでくるので、「ああ、これか」と実感する。「さては時ぞと」つまり「さあ、春が来たぞ」と他の動物と喜びを分かち合う季節で ある。

「あやにく」は「あいにく」の古語」で『源氏物語』には何回も使われている。同時に、海の彼方のブラウニングの有名な詩と、さらに有名にした上田敏の 有名な訳詩も自然と口をついて出てくる。


時は春、日は朝(あした)

朝は七時、片岡に露みちて

揚雲雀(あげひばり) なのりいで

蝸牛(かたつむり)枝に這ひ

神、そらに知ろしめす

なべて世は事も無し 
  
The year's at the spring,
And day's at the morn;

Morning's at seven;
The hill-side's dew-pearl'd;

The lark's on the wing;
The snail's on the thorn;

God's in His heaven--
All's right with the world>
穂高川の堤防に立つと、屏風のように広がる北アルプスの山々が一望できる。その堤防沿いに「早春賦」の歌碑は建てられている。 作詞者吉丸一昌は、大正の 初期に安曇野を訪れ、穂高町あたりの雪解け風景に感動してこの詩を書いたという。
早春賦の「賦」とは漢詩を歌うこと作ることであり、「早春に賦す」の意味だ。平成19年、文化庁と日本PTA全国協議会が選定した「日本の歌百選」に選ばれた。

この歌を作詞した吉丸一昌は、今の東京芸大の教授も務めた国文学者である。『早春賦』のほかに「園の小百合、撫子、垣根の千草」と歌う『故郷を離るる歌』 の詞も書いた。同じく文語体だがわかりやすく実に美しい。




(動画はNHK東京放送児童合唱団)

「故郷を離るる歌」

原詩:ドイツ民謡、日本語詞:吉丸一昌

1 園の小百合 撫子(なでしこ) 垣根の千草
   今日は汝(なれ)をながむる 最終の日なり
  おもえば涙 膝をひたす さらば故郷
   さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
  さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば 

2 つくし摘みし岡辺よ 社(やしろ)の森よ
  小鮒釣りし小川よ 柳の土手よ
  別るるわれを 憐れと見よ さらば故郷
   さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
  さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば 

3 此処に立ちて さらばと 別れを告げん
  山の蔭の故郷 静かに眠れ
  夕日は落ちて たそがれたり さらば故郷
   さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
  さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば



ドイツ語の原曲『Der letzte Abend』の歌詞は、家庭の事情で好きな女性と結婚できず、彼女と別れた最後の夜を嘆き悲しんで、本当の幸せとは何かを訴え、彼女 の幸せを願うという悲恋の歌となっている。「富は名誉ではなく  貧乏は恥ではない  もし僕が金持ちなら 君をこの手に抱きしめられるのに・・・」といった歌 詞だが、吉丸一昌の訳詩、『故郷を離るる歌』の歌詞では、別れを告げるという内容は原曲と同じだが、その対象が女性ではなく、タイトルどおり自分の生まれ育 った故郷の懐かしい情景に向けられ、百合や撫子(なでしこ)、千草、つくし、ヤナギなどの草木や、森・山・川などの自然を表す単語が歌詞に盛り込まれ、二番 の「小ぶな釣りし小川」などは唱歌『故郷』を彷彿とさせる。

吉丸一昌(よしまる・かずまさ) 明治6年(1873)-大正5年(1916)。作詞家、文学者、教育者。東京音楽学校(現芸大)教授。大分県臼杵市出身。 五高、東京帝大国文科(1902年)卒。五高生 時代の教授に夏目漱石、小泉八雲。 尋常小学校唱歌編纂委員会の作詞委員会委員長。 『新作唱歌』全10集を編著、『早春賦』、『故郷を離るる歌』、『木の葉 』、『蛍狩り』などが含まれている。吉丸の音楽家としての活動は、後の唱歌の成立やその後の日本の童謡などに多大な影響を与えた。また 作曲には、東京音楽 学校卒の梁田貞、中田章、船橋栄吉、弘田龍太郎などの当時は新人を起用、のちにいずれも大家に育っている。

志の高い人物で、『修養塾』と称して少年10名と生活を共にし、勉学から衣食住、就職にいたるまで世話をしたり、東京で丁稚奉公している地方出身の少年や中 学に行けない少年のために下谷中等夜学校を開設するなど少年の育成に力を注いだ。義理と人情に厚く、常に貧しい人たちに温かい気持ちで接した一方、本人の生 活は極めて質素だった。 非常に豪放磊落な人物としても知られ、大酒呑みでもあった。そのような生活がたたったのか、1916年3月7日、心臓発作により43歳の 若さでこの世を去った。 墓は文京区本駒込の龍光寺にあり2010年に早春賦歌碑が建てられた。 大分県臼杵市の夫人の実家に開館した「吉丸一昌記念館・早春賦の館」 にはゆかりの楽譜や遺品が展示されている。

倍賞千恵子が歌う93曲

この項では倍賞千恵子が歌う「朧月夜」と「早春賦」の2曲の動画をアップした。ほかの項でも「あざみの歌」を使っている。いずれの歌もほかの歌手がたくさん歌っているのだが、とりわけ彼女の歌唱が好きだ。まず日本語が実に明晰であること、日本語のイントネーションが正確であることに尽きる。芸大出のソプラノ歌手が歌曲としては正しいのだろうが、やたら派手に歌うところも、彼女は歌詞全体の意味を把握していて情感豊かに歌い上げるのだ。

同好の方も多いと思うので、YouTubeにアップされている「倍賞千恵子全歌唱」ともいうべき大部な動画を紹介しよう。まず「遠くへ行きたい」から始まるが、つぎつぎと、童謡・唱歌から抒情歌、民謡、シャンソンまで、あらゆる分野にわたる93曲が収められている。間には「男はつらいよ」シリーズの寅さんとさくらのシーンにからめたものや高倉健との「幸せの黄色いハンカチ」のワンシーンものなど息抜きもある。

90曲以上収めるとなると容量としては膨大で、とても個人のサーバーに収容できるものではない。YouTubeで削除されたらそれでおしまいということで以下に紹介するが、流しっぱなしでも連続再生されるし、画面左上にマウスを持っていくと3本横棒の「再生リスト」というのが表示され、再生曲のサムネイルが表示されので、好みの場所に飛ぶこともできる。

倍賞千恵子、童謡から歌曲、歌謡曲、カンツオーネまで93曲を歌う。

(長年YouTubeにリンクを貼っていましたが、2021年2月削除されているのがわかりました。しかし検索で「倍賞千恵子 歌」などと入れてさがすとかなりアップされていますのでそちらでお聴きください)

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