本沢温泉、露天風呂紀行

山のあなたの空遠く・・・いつしか私の中であこがれの地になり、 その実現まで数年を要する「大事業」となった本沢温泉紀行。
これは、人気の本沢温泉へたどり着く「時間」と「距離」の最短ルートと 断言してはばからない。

最初にこの温泉の話を聞いたのは、このあたりを管轄する臼田営林署長からだった。 寒さに強い木を教えてもらい、落葉樹ばかりの山小舎に常緑樹を植えに来てくれたりして、交流があった。 ストーブ用の薪には針葉樹はダメだと教えられ、適した薪を世話してもらったりしていた。

彼は管内の視察に出かけた話をしていたが、その折、硫黄岳の山頂近くに露天風呂が湧いていて、一風呂あびて 降りてきたという。なんでも、露天風呂としては日本では2番目に高い所にあるという。私もすぐに行きたくなった。

だが、けっこう距離があるといわれて、中年太りの足腰を考えてビビッたのと、暑かったり寒かったりで時期がなかなか合わなかったため、のびのび になり、やっと実現したのは98年の秋も深まった頃だった。

さんざ調べて4WDならかなり上まで行けること、いざとなれば通年営業の山小屋があることを調べ上げてのことだった。だから、これから紹介する 道順は、ぐうたら故(ゆえ)の”時間と距離”の「本沢温泉最短ルート」と断言できる。

本沢温泉本館前の標識で
犬以外は
この軟弱メンバーで本沢温泉を制覇した。
少し前まで、インターネットの検索エンジンで「本沢温泉」を調べると、1つぐらいしか引っかからなかったものだが、今では何十という数にあたる。デジタル世代がどんどん紹介してくれている。

しかし、ほとんどが国道141号線を松原湖方向に折れ、稲子湯方向に向かう途中にある、本沢温泉の看板を入る道を紹介しているようだ。いずれも2時間以上かかっている。怠惰な中年には思案のしどころである。 98年11月2日決行した私の方法は、足の弱い家内とゴールデン・レトリーバー犬を連れて、登りの歩行時間は正味1時間である。行ってから言えることだが、散歩の延長みたいなものだった。


行 程

乗用車では無理である。途中までは行けるが、これだと早くクルマを捨てねばならないから、歩行時間はあと小1時間伸びる。私は八ヶ岳林道を使った。

「八ヶ岳高原海の口自然郷」から案内すると、入り口付近の千ケ滝のカーブのすぐ先を右折すると海ノ口牧場への道がある。立派な舗装道路なのは 2005年夏に両陛下と結婚を控えた清宮(サーヤ、現在の黒田清子さん)が八ケ岳高原ロッジで静養されたときの名残りで途中に記念碑がある。そこから百メートルほど 走ると右に曲がる立派な道と直進の小道がある。道なりに行くと国道141号に出る農道だが、これを行かず、 まっすぐの細い道を行く。30メートルほど先の2股を左に入る、つまり山の斜面を左に見ながら巡る林道に入る。

これが八ケ岳林道である。舗装がときどき切れるが全体としては舗装された路面の方が多い道をうねうね3、40分。対向車など ないが、あっても楽に回避できる道だ。ずっと一本道だが、やがて初めて直進と右折との分岐点が出てくる。

私どもの山小舎から見て、隣の尾根に「八ヶ岳高原カントリークラブ」 がある。この14番ティーグラウンド脇の茶店(峰の茶屋)の上を林道が通っている。ここでいつもスライスボールを打って1ペナになる ところだからよく知っている。この分岐点のそばにあるのが件の茶店であることを後日プレー中に気づいた。ゴルフ場のクラブハウスも近い。

林道の十字路。
この看板を山の方に登る。

初めての分岐点をさらに直進すると、すぐ山の中の十字路に出くわす=写真左=。「本沢温泉入り口」である。「日本の秘湯、本沢温泉案内図」というカラーの地図がある。 「これより先4WD車以外進入禁止」と書いてある。 このあたりで乗用車を捨てる人が多いので駐車場ともなっている。タクシーの乗り降りもここまで。ここから歩けば本沢温泉まで2時間というところか。

ここであきらめるのはまだ早い。「徒歩2時間」なら他のルートと大差ない。ここからがこちらの本領発揮どころ。馬力のあるクルマならまだ先に進めるのだ。ただし、対向車があってもすれ違えない幅とカーブ、両側の笹が車体をこするような細い道だ。うまくしたもので、午前中は登りのクルマばかり、午後は下りのクルマばかりでうまく出来ている。がまんしてガタゴト10分ほど行くと、開けた場所になる。「天狗岳展望台」で、ここに10台分ほどの駐車場がある。ここから歩けば、温泉まで1時間20分ほど。

4WDならこの先まだ登れるが、
すこし度胸がいる。
ここであきらめてもいいが、がんばれば、もう少し先まで行ける。入り口の看板に「4WD以外ダメ」とある=写真右=が、まさにその通り。しかも車高のある4WDでないとまず無理。 雨で掘られて石が出たでこぼこの急坂、鋭角に近いカーブ。車体は前後左右に大きく揺れて、怖くなる人もあるだろう。

時間にすれば数分のことだろうが、すごい胸突き八丁の先は、なだらかな道になり、猫の額ほどのカースペースがある。駐車は数台分だ。先客で満杯だったので笹の間に突っ込んで止めた。その先は写真のようなゲートでチェーンがかかっている。ここから先は歩きしかない。

ここから先は本沢温泉の運搬用4WDそれも「軽」でないと上がれない

ハイキングの先に露天風呂

チェーンをまたいで、登山道を行くことになるが、急な登りはない。本沢温泉が物資を運び上げたり、どうしてもという人の送迎に小型の4WDを使うた めの道だから、ゆるやかな勾配がつづく。 針葉樹林帯を行くハイキングコースみたいなもので、展望が開ける所では、野辺山方面が望める。犬づれなので水を用意していたが、あちこちに湧き 水や沢水があって道中水筒もいらない。

30分ほど歩いたところに、多くの地図に「キバナシャクナゲ自生地」とあるあたりにたどり着く。2メートルもある古木が南向き斜面にたくさん育っている。6月頃が満開だと思うが見事なことだろう。

崖にちょっと怖い木橋がかかっていたりする=写真右=。途中、稲子湯から、みどり池を通って本沢温泉に行くコースと 合流する。キャンプ場の先が目指す本沢温泉である。正味歩行時間、1時間だ。

通年営業の温泉としては日本で最も高い場所にある。山小屋の一部は旅館造りになっている。ここには泉源が二つあって一つは旅館の内湯にしている 湯温55度のナトリウム・マグネシウム・硫酸塩・炭酸水素塩泉。これを引いた総檜造り「苔桃(こけもも)の湯」は浴室が男女別にあって、24時間 入浴できる。こちらは日帰り客800円。もう一つが下で紹介しているように川原に湧く露天風呂「雲上の湯」。山小屋で600円のチケット(私が 行った時は500円だったが)を買って 川原まで歩く。

さながら マカロニウェスタン風露天風呂

大願成就の私
家内の素人写真で傾いているので
自分で修正してみてください。
山小屋から5分ほど歩く。硫黄岳から流れる湯川渓谷のザレ場を下った谷底のようなところに湯が湧く。斜面を河原に降りる途中に、木枠で囲んだ 露天風呂がある。ただそれだけ。脱衣所もなければ洗い桶もない。そのへんの 石の上に脱いで入る。男はいいが女性は困る。水着を用意してくる人もいるようだがこれでは風情がない。

まあそこは各自で解決してもらうことにして、眺めのすばらしいこと。八ヶ岳を構成する硫黄岳の直下だから、ガスで一木一草生えてない。露天風呂 の下は河原だ。あと頂上まで荒涼とした斜面。その中腹に湧く温泉にはいっていると、いまにライフル片手に馬に乗ったクリント・イーストウッドが出て きそうな風景の中に身を置いている自分に気づくのである。

源泉60度とか。足の下から熱い湯が湧いているのがわかるが、11月の外気温にさまされるせいかぬるくて出るのに躊躇するほど。上を見ると 夏沢峠から八ヶ岳の稜線に出ようとする登山者の姿が見えた。本沢温泉から夏沢峠まで1時間ほどらしいが、こちらはここが終着点だから、ワインを 抜いて家内と犬とで乾杯だ。

そこで出てくるのが、冒頭に紹介した「山のあなた」である。ドイツのロマン派の詩人、カール・ブッセ (Carl Busse,1872-1918) のドイツ語の詩を上田敏 の名訳で。本沢温泉に浸かりながら声に出してみるといっそう味わい深くなるはずである。


上田敏「海潮音」から

 
山のあなた

カール・ブッセ





 
 山のあなたの空遠く
  さいはひ 
 「幸」住むと人のいふ。
  ああ            と 
 噫、われひとゝ尋めゆきて
  
 涙さしぐみ、かへりきぬ。
  
 山のあなたになほ遠く
  さいはひ 
 「幸」住むと人のいふ。


頂上に行くと日本離れした風景が展開する。硫黄岳の爆裂口だ。
私は行かなかったのでネットから拝借した。

本沢温泉の歴史

本沢温泉は八ケ岳連峰のほぼ真ん中に位置する硫黄岳(2760メートル)の爆裂口直下の谷間にあり、本沢温泉の標高は2100メートル。本沢温泉からすぐ 上の夏沢峠(約2440メートル)までは 歩いて1時間ほどだが、この峠を境に「北八ケ岳」と「南八ケ岳」に分かれる。今でこそ単なる登山ルートに過ぎないが、夏沢峠を越え る道は古くから諏訪地方と佐久地方を結ぶ主要な道だった。

明治の初め、原田源吉が許可を得て、茅野から夏沢峠を越えて現在の小海町につながる道の建設に取りかかった。今は小海町側が表玄関 のようになっているが当時は逆で茅野市側が表玄関で原田源吉はここの出身だった。開いた新道の長さは30キロ にもなり、完成まで十数年かかった。小海町側の稲子湯近くに現在、原田源吉の記念碑が建っている。稲子湯は慶応時代に原田源吉が発見、 明治12年に旅館を開設したところだ。

現在「日本最高所の野天風呂」として秘湯とされる本沢温泉は、江戸時代の終わり頃に猟師が湧き出している温泉を見つけたのが始まり とされる。難所の夏沢峠のそばにあり、旅人が一汗流すのに最適の場所でもあり、原田源吉の跡を継いだ養子の原田豊三郎が明治15年 (1882年)に温泉が湧き出す本沢に小屋を開いた。八ヶ岳の多くの山小屋の中でも最も歴史が古い小屋の一つで、2007年7月創業125周年 を迎え、記念行事が行われた。今でも土蔵など創業期の建物が残り、昔の面影が残っている。

大正時代、岡谷の製糸業が栄えていたころが最盛期で、馬を引いて峠を越える人と物が頻繁に往来し、本沢温泉もにぎわった。 昭和初期に国鉄小海線が、先人の献身と財をなげうっての建設努力によって開通してからは物流の主流は鉄道に奪われたものの、 農閑期には馬に荷物を積んで本沢温泉にやってくる湯治客が多く、1950年ごろまでこうした姿が多く見られたという。

三代目の原田豊一さん(2007年で81歳)は1945年戦争から復員してすぐ小屋に入った。以来、60年以上本沢温泉の山小屋に携わっている。 当時は一日おきに、茅野から馬に食料などを積んで小屋に上がった。数年前に経営を長男の雅文さんに譲ったが、今でも夏は毎日のよう に小屋へ登る。登山客は時代で増減があるが、60年代の登山ブームのときは東京からの夜行列車は登山客で満員。茅野駅は登山者であふれ 席に座れない客は新聞紙を床に敷いて寝たほど。今でも紅葉の季節は登山客が多く130人泊まれる本沢温泉の山小屋は満員になるという。

ロケーションに満足して誰も泉質など気にしないだろうが、一応効能を述べれば、酸性含硫黄カルシウム・硫酸塩泉とカルシウム・ナトリ ウム・硫黄炭酸水素塩泉で神経痛、高血圧、婦人病などによい。本沢小屋から歩いて5分の川原にある。 

露天風呂は日本一か二番目か

さてここからが問題になる点だ。最初に紹介してくれた営林署長は「日本で2番目に高いところにある温泉」といっていた。ところが、日本一高いところにあるという人がけっこう多い。 現に露天風呂(ここでは野天風呂といっている)のチケットには「日本最高所、2150メートル」と印刷されている。風呂の中で、2番目説の登山者に聞 いたら、日本一は立山の地獄谷温泉だそうだ。 行ったことがないからわからないが、2番目の方が何となく謙虚で、そのうち日本一にも行って見ようという気になるからいいように思う。
驚いたことに、本沢温泉の住所を聞いたら「長野県南佐久郡南牧村」だという。なんと私の山小舎と同じ住所ではないか。ぐんと親しい温泉では あるが、近くて遠いこともまた事実だ。

この項を書いて何年か後、「日本の高標高温泉ベスト3」という記述を見かけた。それによると、

@みくりが池温泉(富山) 2,430m
A地獄谷温泉(富山)   2,300m
B本沢温泉(長野)     2,150m
だという。みくりが池というのはどこか知らないが、本沢温泉がどんどんランクを下げるのが気になる。ま、風情はどこにも負けないだろうが。

【問い合わせ】
山小屋の宿泊は1泊2食付きで8300円から。冬季の積雪時には往路のみ、林道分岐場所とゲートの間に雪上車の迎えがある。
茅野市に本沢温泉グループ事務所がある。
  〒391-0011 茅野市玉川2382-5 TEL(Fax):0266-72-3250
ここは経営者の自宅で、予約など大概の用はここで足りる。
本沢温泉山小屋は携帯電話で連絡がつく TEL:090-3140-7312

本沢温泉の経営者は八ケ岳にいくつも山小屋を持っていて、ひっくるめて紹介する ホームページがある。


家内や犬連れでラクに登った事を強調しすぎたかもしれない。確かにこのルートはラクに登れるが、いったん天候が変われば、 さらに厳冬期ともなれば表情は一変する。このあたりにはたくさんの墓標が立っているのである。

深田久弥は「日本百名山」の八ケ岳のくだりで「今でも海ノ口あたりから眺めると友の最後の場であった硫黄岳北面の岩壁が、痛ましく私の眼 を打ってくる」と、結んでいる。この場所は露天風呂から40分ほど登ったところである。

大願成就の私
芳野満彦さんの絵
芳野満彦
芳野満彦さん
さらに新田次郎の小説「栄光の岸壁」のモデルとなった登山家で山岳画家の芳野(本名:服部)満彦さん(1931年11月8日ー2012年2月5日)は、昭和40年日本人初のマッターホルン北壁登攀(とはん)で世界的登山家の地位を確立した人だが、戦後すぐ17歳のとき本沢温泉から登り始めて遭難、凍傷で両足先を失った。

「昭和23年(1948)12月19日、松原湖から歩いて本沢温泉から入山した。一年先輩と主峰、赤岳頂上をめざし縦走の途中、硫黄岳から赤岳に行く手前から天候が悪くなった。猛烈な吹雪に襲われ、赤岳の石室小屋に引き返すこともかなわず、雪中でビバーク(野営)。先輩は5日目に死亡。私は小屋にあった草鞋(わらじ)を食べてしのぎ、これまでと覚悟して遺書を書いた11日目に救出され、茅野市の病院で両足指切断の手術を受けた」

猛烈なリハビリにつとめ、歩けるようになって再び山に登り始めた。「五文足のアルピニスト」と呼ばれ、ついに友人とともにマッターホルン北壁に登った。しかしその友人は1週間後、アイガー北壁で遭難、劇的な死を遂げた。

山岳雑誌『岳人』の表紙絵を描き、八ケ岳美術館で個展も開いたり各地で展覧会もを開催している。「絵は山で見つけたものです。仲間には星、花の研究家になったのもいます。山に何かがあるというのは、こうしたことです」

実は、この言葉を紹介したくて、この項を2007年書き加えた。本人はその5年後亡くなったのだが、我が山墅から星や花を見ていると、この言葉が実感としてわかるのである。山には何かがあるのである。


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