「徳川の殿様」物語

八ヶ岳高原ヒュッテ


「八ヶ岳高原ヒュッテ」はこのあたりのシンボルになっている。
テレビドラマにも登場する。
しかしこの建物の持ち主 だった人をご存知だろうか。
テレビよりもっと面白い、破天荒な徳川の殿様のプロフィール。

2003年7月3日からTBSドラマ「高原へいらっしゃい」が放映された。山田太一の原作・脚本で 27年前に田宮二郎主演で放送されたもののリメイクだという。「佐藤浩市さん、西村雅彦さんなど豪華キャスト。 主題歌『forgiveness』は浜崎あゆみさんが歌います」と番宣にあったが、どの名前にも聞き覚えはなく、27年前も今回も 見なかったが、家族は「あ、ヒュッテだ、せせらぎの小径だ、赤い橋だ」と見覚えのある場所が出てくるようで、何回かの 放送に付き合っていた。ご近所住まいということからだろうか、役どころはわからないが八千草薫が出ているというので拝見したいが ずっと見逃している。同じくファンだという小泉首相もビデオを取っているのかも知れないが、政局は時あたかも風雲急を告げている。 同じだろう。

ヒュッテと同じ高度でほぼ隣の尾根といってよいところに八ヶ岳高原カントリークラブがある。夏でも涼しいので毎夏親戚友人とで コンペを開いている。今年のクラブハウスには「次回放送分に当ゴルフ場が登場します」と番組宣伝のポスターが貼ってあった。 お客さんを案内してホテルの支配人がプレーするシーンでもあるのかと、見ようと思ったが、今年は冷夏で雨続き、やめて麻雀大会になったくらいで 、これまた見なかった。

物語は、都会でどん底を味わった男が自分の人生の希望をかけて「八ヶ岳高原ホテル」を再建するというストーリー。 「八ヶ岳高原ホテル」という名前のホテルは現実にはないのだが、このホテルに設定されたのが、27年前も今回も「八ヶ岳高原ヒュッテ」だ。

春先の八ヶ岳高原ヒュッテ 左の写真は、八ヶ岳連峰の主峰、赤岳と我々がその中腹にいる横岳を背景にした「八ヶ岳高原ヒュッテ」だ。ドラマでは毎回エンディングに登場したという。 おとぎ話の城のようではある。でも、ここに山荘を構える人たちのほとんどはこの角度で見たことはないはずだ。こういうふうに見える場所は、現在ホテルとして使われている「八ヶ岳高原ロッジ」のごく限られた"ゴールデンアングル"からだけだ。 以前はともかく、今ではすっかり伸びたカラマツの上高くあがらないとこのアングルは取れない。しかも、春先か秋の快晴の日に限るからだ。この美しい建物がかつて徳川のお殿様の邸宅だった。

撮影のため「ホテル」の看板に
ドラマ撮影のため看板が「ホテル」に
塗り替えられた「八ヶ岳高原ヒュッテ」
イギリス中世のチューダー様式のこの建物は、1934年(昭和9年)東京・豊島区目白に建てられた徳川義親侯爵の自宅だった。設計は、上野東京帝室博物館 (現東京国立博物館)や日比谷第一生命館、銀座和光などをてがけた渡辺仁(1887〜1973)だった。 氏の存命中にもらいうけ、昭和43年に現在の八ヶ岳山麓、つまり 「海の口自然郷」に移築したものだ。材木は北海道の原生林からのタモ材。柱、梁、床などは手斧(ちょうな)仕上げ。金具は 鍛冶屋の手造りだ。格調高いこの建物は、当初はたしかにホテルとして使っていたが、今は夏休みと ゴールデンウイークだけ季節営業している。

右上の写真は正面玄関で、一見ホテルには狭いように見える。だが、パンフレットには横が写っているのでわかるように奥行きが深い。 ホテルに十分使える。今風のホテルの水周り規格などにあわないのでロッジに役目を譲ったのだろうが、展示関係に使えるのではないか、 美術館にしたらなど、頼まれたわけでもないのに勝手に保存方法を考えている。

二度も放送するほど面白いドラマかどうかは知らないが、「徳川義親」という人物の方は間違いなく面白い。私などこちらをドラマにした方が 数倍視聴率をあげられたと思うくらいである。

私は大阪の高校から北大に入ったが、入学してしばらくプロテスタントの教会の学生寮に寄宿した。学生課の張り紙でみつけたのだが、そこで、2年先輩の八雲高校 の卒業生と同室になった。初めて聞く地名で「八雲立つ」からの連想で出雲の方の高校かと思った。だが、「徳川のお殿様がつくった町で道南にある。カタクリ粉が名産 だ」という。 屯田兵は知っていたので殿様も開拓に参加したのかくらいに考えていたのだが、どうしてどうして。その後、北海道土産の「木彫りの熊」 まで殿様の発案だと知った。

徳川 義親(とくがわ よしちか)という人
    1886(明治19).10.5〜1976(昭和51).9.5

元越前藩主松平春嶽の五男として生まれた。明治41年、尾張徳川家の養子となって義親と改名。徳川家の長女米子と結婚、養父の後を受けて 同家19代となり侯爵を襲名。学習院を卒業し東京帝国大学史学科に入学、卒業後、さらに同大学植物科に学士入学。 卒業すると自宅内に「徳川生物学研究所」を設置、この研究所で多くの植物学者が活躍することとなる。貴族院議員にも就任する。

※メモ
5等爵の順位は以下のようになっていた。公爵と侯爵は自動的に貴族院議員になった。
 公爵・・・旧薩長藩主、徳川宗家。
 侯爵・・・徳川旧三家、15万石以上の大藩の旧藩主。
 伯爵・・・徳川旧三卿、5万石以上15万石未満の旧藩主。
 子爵・・・5万石未満の旧藩主。
 男爵・・・維新後に華族に列した家

道南にある八雲町 このころ北海道の開拓地の経営にも力を注いだ。 明治維新によって領地を失った祖父・徳川慶勝は、祿を失った旧藩士のために、政府から北海道に150万坪の土地の払い下 げを受けた。尾張の熱田神宮の祭祀は須佐之男命(すさのおのみこと)だが、古事記にある「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに  八重垣作る その八重垣を 」(建速須佐之男命)から、大いなる八重垣を巡らしたような豊かで平和な理想郷を建設したいという願いを込め、八雲村と名付けて開拓を行った。 道南の噴火湾に面した、広大な荒れ果てた土地は酷寒の地でもあった。 旧藩士約100戸による開拓事業は困難を極めたが、義親の代になって75戸が開墾に成功した。

義親は土地を無償で旧藩士に分け与え、どうしても経営困難な農地や開拓不能の山林は引き取り、「徳川農場」として開拓をすす めた。機械化し、牛の飼育をはじめたのだ。大正十年前後に、現在で言う酪農経営をはじめているのだから、大変な開明思想の持ち主だ。

有島武郎
作家の有島武郎も大正11年7月、同じような農場開放をしている。彼の農場は狩太村(現在ニセコ町)にあった。徳川農場とは、 噴火湾の北と西という位置関係にあり、そんなに離れていない。

大正10年前後は社会主義運動・労働運動においては大きな転換期で、社会主義者と無政府主義者との大同団結を主目的 とした日本社会主義同盟が発足したのは前年だった。有島はアナーキストたちに運動資金など多額の援助を惜しまなかった。 北海道狩太村にあった「有島農場」は父から譲り受けたもので、その農場を解放したいと思っていた。自分が農場主・地主であり、 私有財産を持っているということが許せなかったのである。

有島武郎は学習院に学んだが札幌農学校予科(北大の前身)に編入する。このころ教授の新渡戸稲造から「一番好きな学科は何か」と問われ「文学と歴史」と答えた ところ失笑を買ったという。内村鑑三らの影響でキリスト教へ入信する。アメリカ・ハーバード大学留学で社会主義を知り、帰国後、東北帝国大学農科大学(北大) の英語講師となり、一方で社会主義研究会のリーダーとなった。

波多野秋子
明治43年には弟の生馬らとともに「白樺」の創刊に参加し、作家としての活動を始め「或る女」「生まれ出づる悩み」など精力的に文学活動を繰り広げた。大正5年 (1916)に妻と父を亡くした後創作力に衰えが見え始め、筆を絶つとともに、大正11年(1922)には上述のように『宣言一つ』を発表し、有島農場を小作農に開放する。

一方、有島は婦人公論記者で人妻であった波多野秋子と恋愛関係にあったが、秋子の夫に知られるところとなり、大正12年6月9日、軽井沢・愛宕山の自 分の別荘「浄月庵」の応接間で二人で縊死、1ヵ月後の7月7日に発見された。45歳と29歳だった。有島の友人が、「秋子の夫、春房が有島に金銭を要求した」と暴露したことなどから、 「悪者」扱いされているが最近公開された書簡からは、春房に対する秋子と有島の敬意や、春房の秋子への真剣な思いがうかがえ、必ずしもスキャンダラスな関係ではなかったことがわかっている。


徳川義親も貴族院議員という肩書きとは反対に、社会主義に理解があった。貴族院改革を提唱、受け入れられないとさっさと議員を やめてもいる。

今も北海道の代表的みやげ物
木彫りの熊は殿様のアイデア。
このころ、冬場など農閑期の仕事として徳川農場で木彫りの熊の製作を 奨励した。大正10年の洋行の時にスイスで熊の彫り物の土産と出会い、これを八雲の 土産品として取り入れようと思いつき、いくつもの彫り物を持ちかえった(現在も八雲町に残っている)のだ。同じようなものをつくれと村人や近くのアイヌにやらせた。すすめるだけでなく、東京から当時の高名な日本画家、十倉兼行らを招き農場内で講習会を開いた。 「八雲農民美術研究会」をスタートさせ、盛んに彫らせたが昭和初期の生産量は年間5000体にのぼったという。これが、もとになり、いまでは北海道の土産品として全道の観光地に定着した。

義親は25年間に12頭の羆(ヒグマ)を倒したという。開拓地でのヒグマの害を減らす為に熊狩りを毎年行ったのだが、これを聞いた岡本一平(画家・岡本太郎氏の父)が「殿様の熊狩り」として新聞の ヒマだねとして漫画や記事で掲載したために、「熊狩りの殿様」として知られるようになった。

殿様はじんま疹に悩まされていた。医師に転地療養を勧められると、大正9年シンガポールに出かける決意をする。 マレー・ジャワへ旅行することを聞きつけた朝日新聞記者が 「熊狩りの殿様だから、虎狩りをしに行くんだろう」と、「徳川義親侯爵、シンガポールへ虎狩りに」という見出し のヨタ記事を書いた。この記事をさらに英字紙が転載した。今も多いが”ニュースのキャッチボール”をしているうちに歪曲されるケースだ。

当時は、シンガポールまで船で約2週間。本人が船に乗っている間に、日本とシンガポールで「虎狩りの殿様」が有名になっていた。 シンガポールでは、転載記事を読んだジョホールのスルタン(国王)が「一緒に虎狩りと象狩りをしよう」と準備万端整えて待ち構えている騒ぎになっていた。

殿様の恐怖の体験記

「いや、あれは誤報で」とか言い訳するところだろうが、さすがおっとりした殿様。現地の仕掛けに喜んで乗る。後日、ご本人が書いている。

100人近い勢子が石油缶をガンガン打ち鳴らして、虎を追い出すところへ、私は銃を構えて待機する羽目になった。  「虎はあなたをめがけて突進してくるが、ぎりぎりのところまで撃ってはいけないヨ。もし撃ちそこなったら立っていては危険だ が、自分でひっくり返ってしまえば、背中を踏まれるぐらいですむだろうサ」

 スルタンはこともなげにいう。が、初対面の相手だから心細くて仕方がない。猛獣は真っ正面から飛びかかってくるから命中 率がいい。鹿などは逃げるところをうしろから撃つのだから高度の技術を必要とする。だから度胸さえあれば何でもないはずだ が、理屈でわかっても口で言うようには何事もうまくいかないものだ。

 太陽が西に沈んで、急にあたりが暗くなりはじめたとき、私の後ろで勢子たちがいっせいにキャーッという悲鳴をあげた。草 むらの中にクルッと振り向いた虎の姿が見えたと思った瞬間、カッと口をあけて私の前に躍り出た。とっさのことに、逃げ出す わけにはいかず、夢中で3発撃ったが、虎は倒れるどころかツル草の上をトンで襲いかかってきた。はじめは30メートルほど 離れていると思ったが、ひと飛び5メートル近く接近するからたまらない。私がひっくり返る寸前に、虎は私の頭の上に落下し てきた。しかし、一瞬、スレスレですり抜けたという感覚が走った。私は振り向きざまにもう一発撃った。これは右足の関節を 砕いた。虎は深い草の中にドッと倒れ、私があわてて弾をつめかえているうちに息絶えた。よく見ると、はじめの1発がアゴに 当たっており、キバが2本折れていた。致命傷をうけながらすさまじい突進を見せた虎の執念を思いかえして、私は思わず冷 や汗を拭き、ヘナヘナとしゃがみこんでしまった。

殿様夫妻が乗った欧州航路の花形「箱根丸」(10420総トン)
昭和18年11月27日米軍機の攻撃で台湾沖で沈没。
翌10年、その足で妻と共にヨーロッパへも足を伸ばした。乗ったのは日本郵船が欧州航路の花形として竣工させたばかりの 豪華客船「箱根丸」。このころ横浜からロンドンまで6週間かかった。上海、シンガポール、コロンボ、ナポリ、マルセイユ・・・17 もの寄航地があった。ウイーンでは妻、米子が琴の演奏を披露している。場所は今も正月になるとテレビで「ニューイヤーコンサート」が 流れるが、あのウイーン楽友協会で、これがヨーロッパの人が邦楽を耳にした最初といわれている。

「虎狩りの殿様」、床屋の組合の会長に

子熊を抱いた徳川義親侯爵。
トラ刈りの会長まで引き受ける
ユーモアの持ち主だった。
 このことによって、徳川義親侯爵には「虎狩りの殿様」というイメージが定着してしまう。鉄砲を撃てることから、大日本猟友会の 初代会長にまつりあげられている。それどころか、「虎狩り」から「トラ刈り」への連想で、日本理髪業組合の会長も引き受けさせられたという。

革命にも手を貸している。
二・二六事件、五・一五事件の陰にかくれて、あまり知られていないが、第二次大戦直前の日本で、二回クーデター未遂事件が あった。昭和六年の三月事件と、十月事件だ。この中心になった団体が、秘密結社「桜会」(主宰者は、橋本欣五郎という陸軍将校)だったが、 計画がずさんだったことや直前に軍の上層部が離脱したことで、革命は不発に終わるが、この時の関係者、橋本欣五郎、大川周明らに資金を出資 したのが徳川義親。首謀者達とは、主義がまるで違うのだが「腐敗した政党政治の打破」という一点で共鳴、現在の金で十億円以上を提供したのだ。 殿様の気まぐれではなく、尾張徳川家の財産管理者と協議の上、出したという。

時の軍部に資金提供したというと殿様はいかにも「右」のように見えるが、目白の徳川邸にはれっきとした左翼も身を 寄せていた。それどころか、物理学者であり随筆で名文家の誉れ高い寺田寅彦もいた。ユニークな知識と思想を持った人が 集まる「頭脳の梁山泊」を呈していた。そういう人を集めるのが好きだったのだ。

音楽とも深い関係      現在のヒュッテでマンドリンや琴の演奏会も

殿様は音楽にも理解が深かった。琴の名曲「春の海」の作曲と演奏で知られる宮城道雄は昭和13年12月に、 目白の義親邸つまり現在のヒュッテで琴の会を開かせてもらっている。 日本に初めてマンドリンとチェロとハーモニカを紹介した比留間賢八(ひるま・けんぱち 1867〜1936) は1901年(明治34年)イタリアから帰国するや義親邸に招かれた。多分わが国最初の演奏会だろうがマンドリン演奏会を ここで開いている。

比留間賢八は江戸で生まれた。明治政府の音楽取調掛に採用され、卒業後、渡米してチェロを学んだ。1899(明治32)年 10月、農商務省海外実業練習生(貿易商)として単身ドイツのベルリンへ行く。実習の傍ら音楽の研究 に没頭、同地にてイタリア人アッティーレ コルナティにマンドリンを学び、1901(明治34)年に帰国する際、はじめてマンド リンを持ち帰り、日本に紹介したのである。ハーモニカも習得した。

日本で最初のハーモニカ演奏会を行ったのも比留間で、義親邸のマンドリンと同じ1901年のことだった。ハーモニカは 1827年ドイツのクリスチャン・メスネルによって発明された。日本に輸入されたのは、明治24年という説もあるが、記録に 確認できる最初のものは明治31年8月29日の『読売新聞』の広告で、「横笛(ハーモニカ)」と記されているそうだ。 比留間の演奏会はこの広告からわずか三年後だ。

比留間が持ち帰ったマンドリンを手本に、国産マンドリン第一号製作者となる鈴木政吉(1859年〜1947年)は 名古屋市東区宮出町の出身だが殿様と縁を持っている。父は武士の出だが内職にはじめた琴、三味線づくりが明治に は家業となっていた。政吉の代になって日本に入ってきたバイオリンを見よう見まねでつくってしまう。たまたま持っていた 師範学校の教師から、彼が使わない深夜だけ借りてきて採寸し、図面を作り、1888(明治21)年初頭に自作を売り出した。

事業は順調に伸びた。それに世界情勢も加担した。第一次世界大戦では戦火のため欧州のメーカーは生産中止に追い込まれたことから、 注文が日本に殺到した。アインシュタインが愛用し、アメリカに亡命したとき鈴木のバイオリンを携えていたほどで、最盛期の 大正時代には1100人の従業員を抱え、毎日バイオリン400挺、弓4000本を生産する世界一のバイオリン工場だった。 現在も名古屋で鈴木バイオリン製造として健在で、ビオラやチェロなども作り、まもなく創立120周年を迎える日本最古の弦楽器メーカーだ。

政吉はバイオリンと同じ要領で、比留間賢八が欧州から持ち帰ったマンドリンを見本に日本で最初のマンドリンを作り上げ た。よほど器用だったようだ。マンドリンという楽器が日本に入ってきたのは、1894(明治27)年といわれ、その後、学習院や上野の東京美術 学校にマンドリン合奏団が誕生し、日本におけるマンドリン音楽の黎明期を迎える。その指導者比留間賢八にマ ンドリンを習った人の中には、画家の藤田嗣治、作家の里見敦、詩人の萩原朔太郎らがいた。

晩年の徳川義親
晩年の殿様(昭和35年)。
鎮一がはじめた才能教育研究会
(スズキ・メソード)の名誉会長を
つとめた。=産経新聞から=
バイオリンの指導法で有名な「鈴木メソード」がある。その主宰者、鈴木鎮一(1898-1998)は政吉の次男だ。 彼は名古屋市の商業学校を卒業すると、父親の経営するバイオリン工場で働いていたが、 病気になり3カ月余休養することになった。療養先は静岡県興津(おきつ)の宿だった。ここで徳川義親侯爵と学習院で同窓という 北海道の実業家と知り合った。「徳川侯爵が千島旅行に行くけど、一緒にどう」と誘われた。この旅行で音楽に目覚めた。

徳川義親が鎮一の父政吉に 「鎮一君を上京させて音楽の勉強をさせてはどうだろう」とすすめる。上京し、バイオリンの 手ほどきを受け、さらにベルリンに留学する。後に小澤征爾らを育てることになるチェロの斎藤秀雄もこのときの仲間だ。 アインシュタインと親交を結んだりし、やがて 現地でドイツ人の女性と結婚、帰国後、音楽の才能教育運動を始めた。「能力は生まれつきではない。どの子も育つ、育て方 ひとつ」という教育理論で、昭和26年から亡くなる平成6年まで信州・松本に住み普及につとめた。

鈴木鎮一の指導法はユニークで、練習の前に必ず小林一茶の俳句を親子で唱和させた。「日本は 入り口から さくらかな」「睦まじき 二親持ちし すずめかな」など 一茶の暖かさに触れてから稽古に入ったという。現在「スズキ・メソード」は世界45ヶ国で40万人の信奉者がいるが、殿様は普及会の名誉会長を引き受けるなど、鎮一を助け、終生親交を結んだ。

こうした縁から鈴木鎮一は義親が始めた「日本音楽文化協会」の理事にもなっている。 昭和16年にでき、現在も存続している団体だが、できた当時は大政翼賛会的団体だった。それゆえ 現在ではあまり評価されないが、会長が徳川義親、副会長は山田耕筰というそうそうたる顔ぶれだった。 これも今も存続しているようだが「国際平和協会」にも関係した。理事長は思想家として高名だった賀川豊彦で、理事に殿様 の名前がある。

現在は聾唖者のために「手話」が普及しているが、殿様はこの熱心な推進者でもあった。昭和6年に聾口話普及会が財団法人 聾教育振興会に発展したが、会長にすすんで就任している。義親は戦後も全日本ろうあ連盟の総裁に就任するなど、ろう教育、聾唖問題に熱心に取り組んでいる。 そのときの顧問は渋沢栄一、その他に吉田茂、鳩山一郎など当時の名士50人を集め、首相官邸で発足の集まりが持たれた。

社会問題にも深い関心を寄せている。中部地方で始めて愛知県立精神病院が開院したのは昭和17年12月だが、この 土地は義親が愛知県に寄付したものだ。

殿様「源氏物語絵巻」を切る

切り分けられた源氏物語絵巻竹河(二)玉鬘(たまかずら)の邸。
大君・中君の姉妹が壺前栽の桜を賭けて 碁の勝負を争う。
徳川美術館所蔵の国宝「源氏物語絵巻」の中でも最も華やかな場面。
2013年10月九州国立博物館の「尾張徳川家の至宝展」から。
尾張徳川家には「源氏物語絵巻」が三巻伝わっていた。現在国宝になっているこの絵巻を大胆にも場面ごとに切り離し、 ケースに入れて公開にも耐えうる保存方法を考案したのはこの殿様だ。 12世紀初頭に作成された「源氏物語絵巻」を自分の家中で発見したときはさすがに驚いたらしい。 巻物のため「見れば痛むし、見られないのなら存在意義が無い」と悩んだ末に切る決意をする。もちろん周囲は大反対。「絶対駄目」 と言い張る表装師に「じゃぁ、俺が切る」とまでいって実行した。果断だが、他の絵巻物で試しに切ってもらい、 そのほうが展示や研究に有効なのを確認した後で切るという細心さも持ち合わせていた。

また彼は、こうした尾張徳川家が受け継いできた宝物を後世に伝えるべく、独立組織である財団法人徳川黎明会に宝物を寄付した。そして、 尾張家の屋敷跡(14000坪)の大半を名古屋市に 寄付し、残り3200坪に「徳川美術館」を建設、1935年(昭和10)に自ら初代館長となった。 現在、徳川美術館では、源氏物語絵巻を含む国宝9件をはじめと して、尾張徳川家の代々の遺品1万数千件を一般公開している。


徳川美術館提供のいわば
殿様の”公式写真”
あまりに多芸で本職は「殿様業」としか言いようがないくらいだが、冒頭で紹介したように専門は史学と植物学だった。自宅に 設立した徳川生物学研究所から多くの学者が育っているが、本人にもヒガンバナの研究論文がある。ヒガンバナは不稔性で知られる植物だが、大正3年(1914)の論文『花粉の生理』のなかで、ヒガンバナの不稔性は「恐ラク栄養状態ニ関係アルモノトミラル」と書き、さらに、大正14年の植物学雑誌に『彼岸花ノ種子ニ就テ』という論文で自家受粉実験の結果を報告している。

それによれば、総計約140花をつけた20本の花茎を切り採り、自家受粉をさせ、1茎ずつ花瓶に差し、数日ごとに水を取り替えたり、腐り始めた花茎の下部を切り詰めながら栽培したところ約2か月後になんとか5個の種子が得られた。この5個の種子を蒔いた結果を2年後に論文『Lycoris属植物ノ種子形成ニ就テ』(共著)で、「終ニ発芽セシムルコトヲ得ザリキ」と書いている。4768花から採れた種子はわずかに17個で、しかも発芽したものはなかった、と不稔性の原因を探るためものすごい量の実験をしている。生物学者が本業というべきかも知れない。

大学での専門を生かした「木曽林政史」という著書もあり、ここでは森林資源と荘園の関係を調べている。 畑違いでは「日常礼法の心得」(昭和14年、徳川義親著 実業之日本社)という当時のベストセラーも書いている。 礼法を「日常礼法」と「儀式礼法(有職故実)」に分類して、「時・処・位(じしょい)」が大切と説いている。現在で言えば TPOだというのだから斬新だ。このほか「馬來(マレー)語四週間」(徳川義親、朝倉純孝著 大学書林 )というのも書いている。エチケットから語学、林学、生物学まで八面六臂の活躍だ。

昭和16年12月8日、太平洋戦争が勃発するや、即日、マレー方面派遣を願い出る。陸軍省より陸軍 事務嘱託(マレー軍制顧問)として発令されると、2月にはシンガポール入りし、ジョホール国王等の安全確保に奔走する。 虎狩りのお礼もあったのだろう。
その後、田中舘秀三氏(たなかだて・ひでぞう。昭和19年噴火で誕生した昭和新山の名付け親。地理学者)が個人の資格 で略奪から守り抜いていた昭南博物館・植物園の館長に就任し、昭和19年8月まで務めた。帰国後は終戦工作に参加、高 松宮から天皇へ直接終戦を働きかけたりしている。

昭和17年『東京日日新聞』に当時の昭南博物館長、徳川義親が寄せた一文、「通用しない日本英語」を紹介しよう。 「英語ができないといっても、手真似や片言で通じたらよい。しかしそれさえできない人が多い。あれだけ時間 をかけて学んだ英語だが、難しい文章を解読することが英語の勉強で、全く役には立たない事には呆れてしまう。」とある。 今でも耳が痛い話だ。

終戦時に上述の3月事件の時に出した資金が軍の機密費から返却され た。その資金の一部は「日本社会党」の創設費用に充てられた。もっとも”義親資金”は日本社会党にはまわらず、 新党結成時に除外された人物が持って行ったといわれている。
このときの「日本社会党」構想は、党首に徳川義親侯爵を据え、後に自民党の中核となる鳩山一郎、岸信介、船田中、 赤城宗徳の各氏らも参加する予定だったというから、実現していればその後の社会党は大きく変わっていただろう。

女子学習院の校舎にもなったヒュッテ

ホテル1号室からの八ケ岳の眺め
テレビドラマで「八ケ岳が見える1号室」と紹介された
部屋から見た赤岳。ヒュッテ玄関の真上にあたる。
現在の「八ヶ岳高原ヒュッテ」は女子学習院の校舎として使われたこともある。 昭和20年5月25日の空襲で青山の女子学習院が焼けたため、6月5日から戦後しばらくまで、目白の徳川邸を仮校舎に したことがあるのだ。

ちなみに現在の学習院大学はこの徳川邸があった場所から目白通り沿いにほんの隣といった位置にある。 物事に拘泥する人ではなく、この由緒ある建物も乞われるとさっさと明け渡している。当時ここを開発していた 西洋環境開発が昭和43年に譲り受け八ヶ岳に移築したものだ。

ヒュッテを右に入ったところ
女子学習院の校舎として使われたことも。
1号室は左端の部屋になる。
戦後、華族制度の解体により資産が激減、「徳川生物学研究所」は1970年に閉鎖され、義親自身も戦後植物学の研究をする ことはなく、多くの協会や団体の役員、会長などを務めた。頼まれるといやといえなかったようで、名古屋の私学、南山大学 の門に掲げられている「南山大学」の文字も殿様の筆だし、なぜか「池袋観光協会会長」も引き受けている。突然思い立って 名古屋市長選挙に立候補したこともあるが、受け入れられず、昭和51年9月5日自宅にて死去。満89歳11か月、波瀾の生涯であった。
墓所は愛知県瀬戸市定光寺町にある尾張徳川家の菩提寺、定光寺(じょうこうじ)。法名「昭徳院殿勲誉義道仁和大居士」。


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