2012年1月 課題: 涙

交響曲第九番を聴く

                               
 
知人からチケットを二枚もらったので、妻と東京文化会館にベートーベンの交響曲第9番を聴きに行った。もう10年ほど前の暮れのこと。30数年ぶりの文化会館だ。4階の左側の座席。トイレに行ったりしていて、絨毯を敷き詰めた階段を上がって席に着いたらすぐに、開演予告の鐘が鳴った。澄んだ鐘の音で40年前が蘇る。

 当時、私は日本フィルハーモニーの定期会員になっていて、文化会館の天井に近い席でクラッシックを毎月聴いたものだ。仕事が終わってから駆けつけるから、開演の鐘の音を聞きながら文化会館の階段を5階まで駆け上がり、座席で周りの人に気兼ねしながら弾んだ息を整えたことも何回かあった。20代の頃に第9の演奏を暮れに聴いたことはあるが、文化会館ではなかった。
 文化会館の内部の造りは当時と変わっていない。今回は左側席の最後列で、オーケストラの左3分の1、バイオリンのパートは見えない。

 演奏はレニングラード国立歌劇場管弦楽団。弦楽器だけの曲が演奏されたあと、第9となった。久々の本格クラッシック、少し前に行った井上陽水のライブの時とは違って、緊張して聴く。指揮者はまだ若い細身長身の人だ。

 第1楽章、第2楽章を聴いているとき、これはモーツアルトの曲ではないかと思ったほどだ。荘厳というより軽快で明るい。弦の厚い響きというイメージがベートーベンの音楽にはつきまとうのだが、1、2楽章はフルートとクラリネットの響きが強調されている。特にフルートは全楽章を通じて出ずっぱりの感じだった。男性と女性の奏者がいたが、ほとんど男性の奏者が演奏し、脇の女性は時たま楽器を口に当てる程度だった。

 第4楽章、コントラバスから始まり、チェロ、ビオラ、バイオリンと繰り返しながらだんだん高音域へと移っていく主題。私の心も主題と共に高まっていく。この手法は単純な手法といえば単純だが、人の心を揺さぶる。そしてバスのソロから始まる「歓喜によす」の合唱。数えたらおよそ225名の大合唱団を巻き込んだ圧倒的ボリュームでクライマックスを迎える。私はこみ上げてくる感動のうねりをせき止められず、目からは涙があふれた。歌詞として用いられているシラーの詩が私の感動をさそったのでもなければ、音楽に触発された特定のイメージが私を感動させたのでもない。音そのものが私の心を激しく揺さぶった。圧倒的な音楽の力。

 なぜ、音楽がこうまで私の心を揺さぶるのか、わからなかったし、あえて自身に問うこともしなかった。ただ、チェコの作家、ミラン・クンデラの『不滅』の中の一節が、心をよぎった。クンデラはいう:「いかなる文明にしても、ヨーロッパ音楽千年の歴史というこの奇蹟を創造することには成功しなかった」

 終了と同時に激しい拍手、そして「ブラボー」の声が一つかかった。

 妻に気付かれないように、そっと眼鏡の下から指を入れ瞼をこすってから席を立った。 

   2012-01-18 up

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