2006年6月 課題 「ライバル」

二重らせん

                              
 20世紀最大の発見の一つに、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによるDNAの二重らせん構造の発見がある。1953年、もう半世紀以上前のことだ。20世紀後半のバイオサイエンスのめざましい発展は、彼らが提出したいわゆるDNAのワトソン・クリックモデルを基礎としている。
 
 DNAの構造解明で競ったのは、カリフォルニア工科大学のライナス・ポーリングと、ロンドンのキングス・カレッジのモーリス・ウイルキンズと女性結晶学者ロザリンド・フランクリン、そしてケンブリッジのワトソンとクリックである。ポーリングはすでに構造化学の大家で、54年のノーベル化学賞を受賞している。DNAのような高分子の構造は結晶のX線回折という手法により、複雑な計算を経て決めるのが正統な方法であるが、DNAについてはウイルキンズとフランクリンがその分野では最も進んでいた。ファージの研究が専門のワトソン、戦争中は地雷の設計に携わっていた物理専攻のクリック。DNA構造の解明への道は三グループの中でこの二人がもっとも遠いように思える。
 
 それなのに何故、彼らにDNA構造発見の栄誉がもたらされたのか。 

 一つはDNA分子構造こそが遺伝現象の解明の鍵であるという生物学者としてのワトソンの信念の強さであろう。生物学者ではないウイルキンズにもポーリングにもそれは感じられず、DNAに研究を集中してはいない。

 もう一つはモデルを組み立てるという彼らの用いた手法。少し前にポーリングはタンパク質の立体構造について画期的な成果を発表していた。彼が用いた手法はモデルを組み立てるというものであった。ワトソンとクリックも、ポーリングの手法がDNA構造に至る最短の道であると考える。同時にポーリングこそ最大のライバルであると意識する。DNAでは遅くスタートした巨人ポーリングがもうそこまで迫っている。この思いが二人の背中強く押した。

 一方、ウイルキンズの下にいたフランクリンはDNAのX線回折データをたくさんもっていたが、助手ではなく対等の研究者としての立場を求めてウイルキンズと対立していた。こじれた二人の関係はワトソンとクリックの絶妙なペアと対照的である。彼らはモデル作りという手法はとらず、あくまでも正統な地道な計算を繰り返していく。

 海の向こうのポーリングと違って、ワトソンらとウイルキンズらはすぐ近くにいる。ライバルとはいっても、お互いの交流は頻繁に行われる。これはワトソンらにとっては大きなメリットであり、ポーリングにとってはハンディとなった。ある時、ワトソンはフランクリンが撮った、DNAの良質のX線回折写真をウイルキンズから見せてもらう。それは、DNAの二重らせん構造を示唆するものであった。それから一ヶ月余で彼らの二重らせんモデルは完成する。

 ワトソン、クリック、ウイルキンズは1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞する。同年のノーベル平和賞は反核兵器運動への貢献により、ポーリングに与えられた。最良のX線回折データを持ち、DNAの構造まであと少しの所まで来ていたフランクリンは、58年、37歳という若さで亡くなっていた。


補足

 本作品に登場する人物で現存するのはワトソンのみとなった。ポーリングは1994年、クリックとウイルキンズは2004年にそれぞれ亡くなっている。

 DNAの構造発見を巡る人間ドラマは興味つきない。とても1400字の作品に収まるものではない。にもかかわらず、何らかの形で私なりにこのドラマを要約しておきたいという思いは以前から強かった。結果としてやはり舌足らずであった。
 教室でも講師は「人の名前がたくさん出てきて理解しにくい。こうした話をわかりやすく書くのは難しい」とコメントした

 DNAの構造といえば二重らせんが有名になってしまったが、2つの鎖を結びつけていて、らせん階段の踏み板にも相当する、相補的な塩基対構造の方が生物学的な意味で重要である。ワトソンとクリックの偉大さはアデニン(A)とチミン(T)、グアニン(G)とシトシン(C)という塩基対間の水素結合による結びつきをDNA構造に持ち込んだことである。
DNAについては「ことば」の所にも書いているので参照されたい。

 DNA構造の発見物語には早くから科学史家のものを始め、当事者自身の手になる著作も公にされている。
 本編を書くに当たって以下の著作を参考にした。

二重らせん:ジェームズ・D・ワトソン著 江上不二夫/中村圭子訳 パシフィカ社
熱き探求の日々:フランシス・クリック著 中村圭子訳 TBSブリタニカ
分子生物学の夜明け(上下):H・F・ジャドソン著 野田春彦訳 東京化学同人
DNAの一世紀(I、II):F・H・ポーチュガル、J・S・コーエン著 杉野義信、杉野奈保野訳、岩波書店

本作品を書き上げた後、ウイルキンズおよびフランクリン側からの著作もあることを知った:

二重らせん 第三の男:モーリス・ウイルキンズ著 長野敬、丸山敬訳 岩波書店
ダークレディと呼ばれて:ブレンダ・マドックス著 福岡伸一監訳、鹿田昌美訳 化学同人

                             2006-06-28 up

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