2022年9月  課題:髪

藤原定家と北条義時 

長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ   待賢門院堀河

 百人一首を一生懸命に覚えたのは高校時代。心に残った歌はいくつかあるが、この歌もその一つ。男の愛がいつまで続くか分からず、長い黒髪を乱して嘆く女。そんなように解釈していたが、なんと言っても長い黒髪を乱した女のイメージが強く心に残った。後に、「今朝」は共寝した男女の翌朝の別れ、後朝のことであることを知り、ずいぶんエロチックな歌だと思いをあらたにした。

 ところで、百人一首は藤原定家が選んだ百首だ。その定家にはもっとすごい黒髪の一首があった。

かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥す程は面影ぞたつ

 寝ころんでいると、かつてかきやった黒髪が一筋一筋目に浮かんでくる、という。

 堀田善衛はその著『定家明月記私抄続編』の中で、この歌を紹介し、新古今的世界の行き着いた先の頽廃の極みであるとした上で、「エロティシズムの抽象化、あるいは抽象性のなかに香を炊きこめるようにしてこめられたエロティシズムとしては、マラルメとともに、世界文学の最高の水準に達したものである。」と評する。

 定家の父藤原俊成も歌人で、子供が27人いたが、定家も27人の子供をもうけた。妻問婚の風習はまだ残っていたのだ。

 定家の生まれたのは応保2年、1162年。一つ下に北条義時がいる。

 同時代を生きたこの二人の生き方は極端に対照的だ。頼朝亡き後、義時は陰謀とテロルをもって、梶原一族の滅亡から始め、比企一族、前将軍頼家の惨殺、畠山重忠殺害、和田一族の滅亡と次々と政敵を滅ぼし、最後には承久の乱に勝利し後鳥羽上皇を隠岐に流して、北条政権を樹立する。日本の史上でも類を見ない血腥い時代を演出した当事者だ。

 一方の定家はその日記『明月記』に「紅旗征戎吾ガ事二非ズ」と記した。白楽天の詩の一節で、「旗を掲げて夷狄を撃つ戦など私の知ったことではない」という意味。定家19歳の時の記述で、源平争乱が勃発した年である。定家の生涯はこの言葉で貫かれた。後鳥羽上皇とは和歌を競い合った仲であり、上皇の要請で「新古今和歌集」を編纂。ちなみに、この勅撰和歌集が出来たのは、1205年で、同じ年に、些細な言いがかりとも思える理由から、板東武者の鑑とされた畠山重忠とその一族が北条氏により滅ぼされている。

 定家は和歌を通して将軍実朝とも近かった。さらに後鳥羽上皇とはその後、歌論の違いから反目し合い疎遠になった。そのため、承久の乱に際しても、鎌倉方から罰せられることはなかった。義時の死後17年も生き79歳の長寿を全うした。

 承久の乱のすぐ後で義時は亡くなる。後を継いだ子の泰時は名執権として鎌倉幕府を盤石なものとし、その後武家政権は明治まで続いた。

 定家は大歌人として、さらに『源氏物語』など古典文学の書写などにも力を注ぎ、後世に多大の影響を与えた。

 冷徹なリアリストである武士と幽玄美を追究した教養豊かな中流貴族

 私の好みは「黒髪をかきやった」定家である。

補:3日前の9月18日、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」は、畠山重忠一族の滅亡が描かれた。

       2022-09-21 up


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