2022年8月  課題:キャンプ


 滑落 
                           

 1967年7月、独身最後の山行として北アルプスの北部、立山・剣を選んだ。メンバーは私が最年長で、3年後輩の山慣れしたKさん、そして女性3人の計5人。いずれも職場の同僚だ。以下、山日記から:

 金曜の夜行で富山経由、ケーブルとバスを乗り継いで室堂まで。そこから下って剣沢にテントを張ったのは翌日の午後4時。ここを拠点として剱岳と立山へピストン登山する。装備はテント一張り、ラジウスという石油バーナー二、コッフェルという調理用鍋二、飯ごう一。飯ごう以外は職場の山岳部の備品を借りた。この他4日分の食料、燃料の灯油5リットル、そして各人の寝袋など、かなりの荷物になる。剣沢は上高地の涸沢ほどたくさんのテントが張られてはいない。飲料水、トイレ、ゴミ捨ては剣沢小屋を利用させてもらった。
 
 キャンプといっても、キャンプ自身を楽しむより、山登りの便宜のためだから、手早く食事を作り、早々と寝ることを心がける。山小屋を利用すれば手軽だが、このシーズンの北アルプスの山小屋は混雑を極める。


 幕営地は北向きの斜面で、正面に剣岳が堂々たる山容を構え、この時期でも大量に残る雪渓の上では、人々が夏スキーやグリセードを楽しんでいた。

 2日目に剣岳に登った。往復6時間。剣岳、標高3003メートルは岩峰で、垂直に近い岩をよじ登るところもあり一般ルートも健脚向きとされる。山頂もゴツゴツした岩で、小さな祠があり一般の山のように平坦なところはない。

 翌日は立山を目指す。こちらはゆったりとした稜線歩きになる。前日の疲れか、女性メンバーの一人が途中で体調不良を訴えたので、一人にするわけにもいかず私が付き添って引き返した。

 次の日は一旦剣沢を下り、その後仙人山へ登り返し、黒部河畔の阿曽原へ向かった。剣沢は雪渓の上を歩く。仙人山からは仙人谷を下った。ここも雪渓が谷を埋めていて、登山道が寸断されていた。それで登山道から雪渓へ、雪渓から登山道へと道を探しながら歩いた。

 夕方近く、雪渓から山道へ移ろうと、斜面を登っている時、つかんでいた草が抜けて、私は滑り落ちた。そこには3メートルもある雪の壁が立ちはだかっていて、それにぶつかり私は止まった。しかし、その右横1メートルほどの所に大きな雪渓の割れ目が暗く口を開いていた。私は草につかまりながら斜面を割れ目方向にトラバースしていたから、もし、あの時点で草が抜けずに、割れ目の真上で抜けたなら、割れ目に滑り落ち、下を流れる冷たい水にさらわれ、28才で命を終えていただろう。先に行っていたKさんが来てくれるまで、私はその場を動くことができなかった。


 朝、7時に剣沢を発ち、阿曽原についたのは夜の7時半だった。私はテントを担いでいたから、荷物は30キロは超していただろう。くたくただったが暗い中でテントを張り、飯を炊き、阿曽原小屋で手に入れたビールを飲み、10分ほど下った黒部河畔の、灯りも屋根もない真っ暗な露天温泉につかった。

 翌日は黒部左岸に作られた水平歩道を5時間歩き、トロッコ電車が来ている欅平に出て、宇奈月、富山経由、夜行で帰った。

 その秋、私は結婚し、今このエッセイを書いている



              剣岳を背に

        2022-09-01 up


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