2021年8月 課題:散りぎわ 正成と尊氏 「青葉茂れる桜井の」という戦前の唱歌がある。学校で習った記憶はないが、歌いやすく、今でも口をついて出る。 楠木正成が、足利尊氏を兵庫に迎え撃つに際し、ともに参陣しようとする息子正行をなだめて、現在の大阪府三島郡島本町桜井で別れを告げる場面だ。 正成は河内の豪族。後醍醐帝の鎌倉幕府倒幕の挙兵に加わる。押し寄せた幕府の大軍を千早城や赤坂城に立てこもり、崖の上から丸太を落としたり、藁人形の兵士を並べて欺いたり、散々幕府軍を懲らしめる話は、私も子供の頃に聞いた。義経に並ぶ軍事天才、英雄であると思っていた。その英雄が、死地に出かけるというこの歌の歌詞は身にしみ、正成贔屓を決定的にした。 後醍醐帝の決起は一旦幕府に抑えられ、天皇は隠岐に流される。しかし、隠岐を抜け出した天皇は、京都に向かって進軍する。尊氏は後醍醐帝を迎え撃つべく、京都から西に向かう。だが、密かに倒幕をもくろんでいた尊氏は、丹波で軍を反転させ、京都の幕府の拠点六波羅探題を落とす。時を同じくして、新田義貞は鎌倉を攻め、鎌倉幕府が滅亡し(1333年)、後醍醐帝の親政が始まる。尊氏は後醍醐帝の諱から一字もらって、「高氏」を「尊氏」とする。 しかし後醍醐帝と尊氏の蜜月は長くは続かなかった。戦後の恩賞などを巡り、武士よりも公家に厚くした後醍醐帝への反感などから、尊氏は天皇と距離を置くようになった。北条の遺児による反乱を鎮圧して鎌倉にいた尊氏に、後醍醐帝は義貞軍を差し向ける。箱根で義貞を破った尊氏は京都に入り後醍醐帝は逃れる。しかし、盛り返した義貞軍により、今度は尊氏が九州まで落ち延びる。だが、すぐに盛り返して、京を目指してくる。それを、義貞・正成軍が迎え撃ったのが兵庫の湊川。上の歌はその戦に出陣する際の正成・正行父子の別れを、哀調をもって歌ったもので、明治36年落合直文の作詞。 義貞は敗走し、最後まで戦った正成は弟の正季と差し違えて自害して果てる。後醍醐帝は吉野に逃れ、尊氏は京都に光明帝を擁立し、室町幕府を開き、半世紀以上にわたる南北朝対立が始まる(1336年)。 志ならず、負け戦を覚悟しながらも潔く散った正成。正成が日本人のヒーローにならないはずがない。源義経、西郷隆盛がそうだ。だが、正成にはもう一つ、二人にはない尊皇の忠臣という強力なレッテルが貼られた。貼ったのは水戸光圀が編纂した『大日本史』。光圀はこの中で、南朝を正当な皇統とし、正成を最大の功臣とした。この尊皇史観は幕末に最高潮に達し、倒幕のイデオロギーとなり、そのまま明治政府にひきつがれ、終戦まで続いた。一方、尊氏は逆臣としておとしめられた。こうした見方は、戦後もしばらく消えなかった。私が子供の頃、正成父子の別れの歌に心を引かれていたのはそのためだろう。 高校の歴史では、正成は荘園領主にたてつくいわゆる「悪党」の一人として述べられていた。 2021-08-18 up |
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