2020年8月  課題:「妖怪」

 天保の妖怪
 

「今年は改元で、元治元年か。とすると、俺がここ丸亀藩の預かりの身になってもう19年も経つか。当初のきつかった監視も最近では大分ゆるんで、俺の所に治療に来る人もいる。医師ではないが、若いころ親しんだ漢籍で、漢方の多少の知識はある。それにしても、近頃、外では毎日調練の声がよく聞こえる。俺の大嫌いな洋式の調練だ。攘夷攘夷と言っておきながら洋式の調練など、亡国のもとだ。また、商人どもに武器を持たせて訓練しているが、国法に反するもってのほかのことだ。

 幕府の儒学の元締め、林家に生まれた俺は、根っから洋学が嫌いだ。目付の時には、幕府に洋式砲術をもたらした高島秋帆や、洋学かぶれの渡辺崋山や高野長英を引っ捕らえ獄にぶち込んだ。いわゆる蛮社の獄というやつだ。俺の放った間諜に奴らのちょっとした過失を探らせ、それを突きつけたのだ。崋山は国元で自刃したと聞いたが、秋帆と長英のその後は聞いていない。

 俺の名?鳥居耀蔵だ。官位は甲斐守。俺の辣腕ぶりに恐れをなした連中が、「耀」と「甲斐」を合わせて、天保の当時から「妖怪」と呼ばれた。

 天保の改革の主導者は老中水野忠邦だが、実行するのは江戸町奉行だ。当時の南町奉行は矢部定兼(さだのり)だ。この男は剛直と評される切れ者だが、水野とは改革を巡り、意見が対立した。矢部のような人望もあり出来る男がいては俺の出世の妨げとなる。例によって手下に探らさせ、矢部のささいな過失をいくつか掴んでいた。それに水野が飛びついて、矢部を罷免し、後任に俺を命じたわけだ。俺は江戸の風紀を正し、奢侈、贅沢を徹底的に取り締まった。七代目団十郎も人気をいいことに奢侈に溺れていたので、江戸十里四方追放にした。こうしたことで、人々から恐れられ、反感を買ったが、そんなものは少しも気にしなかった。

 矢部はお家断絶の上、桑名藩に預けられ、程なく死んだ。抗議のため絶食して自らの命を絶ったという。俺はそんなことは絶対にしない。最近は体のあちこちが弱ってきて病気がちだが、最後まで生き抜いてみせる。

 水野は改革の一環として幕府の直轄地を江戸と大坂の近郊に集め、大名や旗本にはそれに見合う領地を与えようとした。いわゆる上知令だ。これには反対が多かった。俺に対する水野の信頼は絶大であったが、俺もこの上知令には賛成できなかった。結局上知令は頓挫し、それが水野失脚の原因となった。土壇場で水野を裏切ったおかげで俺は失脚を免れた。

 だが、水野は1年もしないうちに老中首座に復帰した。水野に仕返しされる形で俺は罷免され、罪を負わされた。その水野も俺が丸亀に送られる前に罷免され、その後出羽に転封され、10年以上前になくなったと聞いている。水野のあとを継いだ阿部正弘は俺の嫌いな開国派だが、若くして病死した。開国に踏み切り、安政の大獄を断行した井伊直弼も桜田門外で討たれたと聞いている。だが、俺は生き抜くぞ。」

 耀蔵が解放されたのは明治新政府になってから。実に23年におよぶ禁固生活を生き抜いた。耀蔵は明治6年、78歳の生涯を閉じた。ひ孫の顔も見ることも出来た耀蔵は、幕末史の中では希有な存在、まさに妖怪の名にふさわしい。

 補足
  本エッセイは松本清張の『天保図録』と松岡英夫の『鳥居耀蔵』を下敷きにして執筆した。

  
鳥居耀蔵と同時期に江戸北町奉行であったのは遠山景元、通称遠山金四郎である。遠山は鳥居とは対照的に奢侈・贅沢の取り締まりにそれほど厳しくはなかった。
  遠山も鳥居の策謀で北町奉行から名ばかりの大目付という閑職に追われる。民衆に人気のあった遠山をモデルとして、後に多くの時代劇が作られた。
  テレビでも「遠山の金さん」などの時代劇が人気だった。


   2020-08-26 up

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