2020年9月 課題:「距離・ディスタンス」 季語とのディスタンス 市中は物のにほひや夏の月 凡兆 あつしあつしと門々の聲 芭蕉 二番草取りも果さず穂に出て 去来 灰打たたくうるめ一枚 凡兆 これは『猿蓑』に収められた俳諧連歌の出だし部。発句は街の夏の夜の風景。それに付き添うように芭蕉が脇句を付けた。脇句は発句に寄り添ったものとする。第3句は、発句から大きく離れることが求められる。芭蕉の「あつしあつし」を受けるが、風景は一転、好天に恵まれ稲の生育を喜ぶ農村の情景に飛ぶ。4句目は、そうした農家の草をとる頃の食事の風景。うるめはウルメイワシの干物のこと。決して豊かではない農家の食事。この句は第3句を受けているが、その前の芭蕉の句からは離れている。前の句とは微妙に付き、その前の句からは距離を置く。これは俳諧連歌の基本原則。こうして、前へ前と変化し、36句、一つの歌仙が巻き上がる。 歌仙の中で発句だけは前の句とは付く必要がないが、季語を必要とする。凡兆の発句では夏の月が季語。こうした発句の特徴から、それが独立してやがて俳句となっていく。 俳句を始めて10年経った。始めた頃は「季語に付きすぎ」というコメントを句会でよく受けた。初心者が陥りやすい欠点だ。季語と内容が近すぎると、平凡で、句の広がりがなくなる。凡兆の発句でも、「市中は物のにほいや」と来て、何が来るのかと思っていると「夏の月」。この意外性、この距離感、「物の匂い」と「夏の月」との俗と雅の対比が読者をハッとさせ、しかも「夏の月」が句全体をまとめている。 若き日の移り気を悔ゆ七変化 七変化は紫陽花の別名。季語に付きすぎだとされた。(句会では単に「付きすぎ」と言われる。)紫陽花の花言葉は移り気だから、全くの付きすぎの句。季語を沙羅の花にすると良いとされた。沙羅の花は朝咲いてその日のうちには褐色をおびしてぼんでしまう。確かに、沙羅の花の方が、離れていて、しかも上品だ。 光秀の落ち行く径や沙羅の花 この句も付きすぎとされた。「沙羅双樹の花の色盛者必衰のことわりをあらはす」は平家物語の冒頭にある。光秀が山崎の合戦に敗れたのは六月、沙羅の花も季節によく合うと思ったが、やはり季語と濃厚接触している句だ。句会では光秀が落ちていった径で詠んだ句ととった人もいたが、これは完全な空想の産物。俳句はなにも写生に限らなくてもいいと私は思っている。 団栗を踏んで義経奥州へ 『天為』誌の課題詠「団栗」で入選し、選評をもらった句。選者は西村我尼吾。義経が頼朝に追われ京を落ちて行ったのは初冬。道中の山道には団栗も落ちていただろう。この句の季語として、時雨や木枯しでは落ち行く義経の心境と近すぎるだろう。 2020-09-26 up |
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