2019年7月  課題:「縁側」 

子規庵
                               
 
5年前の夏に根岸の子規庵に吟行したことがある。俳句をたしなむ人には聖地の一つであり、その日も茨城からの一団と鉢合わせた。子規庵は子規が最後の8年を過ごしたところで、南向きに庭に面して8畳と6畳の和室がある。この二つの部屋は、庭に向かって全面的に開放されていて明るい。北側の玄関から入ると左側、6畳に接して4畳半、右側、8畳に接して3畳の茶の間、さらに台所がある。現在の子規庵は戦後復元されたもの。8畳には縁側、6畳には濡縁がついている。子規が住んでいた頃には濡れ縁はなく、また、8畳の縁側には窓ガラスはなかったという。

 8畳は句会や歌会が催された部屋で、6畳が子規が寝起きをしていた部屋。庭に向かって文机がある。文机の手前側の左には四角な切れ込みがある。これはカリエスで伸ばすことの出来なかった左足を膝を立てたまま机に向かえるようにしたものである。

 ボランティアによる説明が終わると、それぞれに室内や庭を見て回る。何人かは左手に句帖、右手にボールペンを持ち、8畳の縁側に座り込んで庭を眺めている。子規も体調のいい日はこの縁側から庭を眺め、句を練ったのだろう。

 五月雨や上野の山も見あきたり 子規

 と詠まれ、当時は庭の背後によく見えた上野の山は今はまったく見えない。庭を取り囲むように人家が迫っている。それほど広いとも思えない庭にはたくさんの木々や草花が植えられている。

 6畳間の前には糸瓜の棚があり、よく茂った葉の陰に大きな糸瓜がぶら下がっているのが見え、また黄色い花も咲いている。痰切りに糸瓜水がいいとされ、植えていたのだろう。病床から毎日眺めていたに違いない。

 子規の死の前日、9月18日に詠まれたのは糸瓜3句である。その一つ

 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

 すごい句だ。長谷川櫂は『俳句的生活』の中で、この句について、病苦にあえぐ自分を冷静に眺め、しかもそれを戯画にしている筋金入りの滑稽の精神が存在すると評している。

「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」と、子規は『病床六尺』に書いた。
 長谷川櫂は次のように述べる。:罠にも似た人生を中途で見切らずに最後まで見届ける。何のために?何のためでもなく、ただこの世の果てを見届けるために見届ける。これが滑稽の精神である。それを芭蕉は「かるみ」にまで高め、子規は「平気」といいかえた。

 6畳の部屋には病床の子規の写真が掲げてある。蒲団から上半身をだし、右肘をついて枕にもたれかかっている。顔にやつれはなく、目つきも鋭い。病人の暗さと言ったものが感じられない。

 庭には小さな石榴の木があり、薄紅色の花を付けていた。

 病床の子規の明るさ花石榴    肇


2019-07-17 up

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