2019年6月 課題:「茶摘み」
茶摘み鋏
一度だけだが、茶摘みを見たことがある。70年も前のことだが、今でも記憶に残っているのは、おそらく茶摘み鋏の印象が強かったからだろう。刃渡り30センチほどの剪定鋏で、片方の刃に袋がついていて、刈り取られた茶葉は自動的に袋の口から落ちていく。その発想と仕組みに子供心に感心した。袋の長さは1メートルくらいだったろうか。袋のついた刃の方を下にして刈ってゆく。袋が一杯になったら籠に移す。今思うと、お茶の木がかまぼこ形をしているからこの鋏が使えるのだ。平らになっていたら刈り取られた茶葉が、自動的に袋には落ちていかない。
私は昭和24年、小学校4年生まで、豊橋市の南、渥美半島の太平洋に面する母の実家に疎開していた。渥美半島は東西に延びるかまぼこ形の地形をしていて、中央部分の台地で人々は田畑を耕していた。母の実家は海側にあり、坂を上がった台地の上の畑を峠の畑と呼んでいた。峠の畑からは、北に愛知県と静岡県の県境にある石巻山とそれに連なる山脈がよく見え、峠の畑は私の好きな場所だった。茶の畝があったのはこの峠の畑の一隅だ。畝は3本か4本くらいで、小さな茶畑だった。大陸から復員してきたばかりの叔父が鋏を動かした。刈り取った茶葉はその日のうちに、牛車に乗せて10キロほど離れた東海道線の二川駅まで運んだと記憶している。多分、静岡辺りの業者に引き取られたのであろう。
この茶畑がいつ頃からあって、いつ頃まで続いたかは分からない。私が見てから、程なく他の作物に変わったようだ。作物の中心は稲であったが、気候に恵まれた渥美半島では、それ以外にも色々なものが栽培されていた。母の実家の村でも戦前はほとんどの農家が養蚕を行っていた。戦後は減ってしまったが、私がいる頃でも蚕を飼っている農家はあった。
サトウキビもよく作られていて、夏の終わりに収穫したサトウキビを村の中心にある広場で絞って、煮詰めて黒いザラメ糖を作った。今でも沖縄などで見られる、牛に引かれて回転するロールの間でサトウキビを圧縮して樹液を絞り、それを煮詰める共同作業。燃料はもちろん薪。粗糖として業者に渡されたのだろうが、一部は家庭消費された。その他サツマイモもデンプン用としてよく作られていた。こうした多様な作物も、次第に整理され、現在ではキャベツ、ブロッコリー等の蔬菜が中心で、峠の畑一帯にはキャベツ畑がひろがる。稲作も減って自家消費程度だ。
茶摘み機は鋏からその後手動ではなく自動化されたカッター式の茶摘み機が開発され、さらにバリカン式の茶摘み機へと進化し、現在では人が乗って、畝を跨いで刈り取る大型の機械まであるとのこと。こうしてみると農作業の近代化は著しい。私が子供の頃間近に見た牛車は軽トラックに変わり、牛に引かせた鋤は耕運機に取って代わられ、農耕用の牛の姿を見ることもない。田植えも稲刈りも機械が行っている。
ネットで茶摘み鋏を検索したら、今でも袋付きの茶摘み鋏が販売されていた。大型機械が入れない傾斜地や小さな畑では、まだ需要があるのだ。
2019-06-29 up
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