2017年10月  課題:「墓」


 
宗祇の墓

 富士の裾野にある、連歌師宗祇の墓を訪れたのは5年前の夏。御殿場線裾野駅から、西の方向にゆるやかにのぼって、15分ほどの定輪寺にある。墓所は三方を生け垣に囲まれた長方形で、奥の大きな自然石の上に五輪塔が建っていた。高さは1メートルほどで墓銘はなかった。墓所はよく手入れされていて、墓前の花受けには、榊のような常緑の枝が供えられていた。

 西行、芭蕉と同じように生涯を旅に過ごした宗祇の最後の旅は、越後の上杉氏のもとから、駿河へ向かうものであった。しかし、体調を崩し、箱根の湯本まで来て、そこで亡くなった。文亀2年(1502年)、宗祇82歳。亡骸は翌日同行の弟子たちによって、箱根を越え、現在の裾野市に葬られた。

 宗祇に関心を持ったのは、中世連歌の不朽の名吟とされる、宗祇、宗長、肖柏の三人によって詠まれた「水無瀬三吟百韻」をたまたま知ったからだ。

 水無瀬三吟の最初の四韻

雪ながら山もと霞む夕べかな 宗祇
 行く水遠く梅匂う里     肖柏
川風にひとむら柳春みえて  宗長
  船さす音もしるき明け方  宗祇

 初めて接した連歌。イメージが鮮明で、分かりやすく、前句につけて世界が展開して行く。世界にも例を見ないこの詩形の大成者とされる宗祇に興味を抱いた。幸い、吉川弘文館の人物叢書に奥田勲著『宗祇』があった。

 宗祇、応永28年(1421年)生まれ。その生涯の前半部分はほとんどわかっていない。史料として残っているのは40歳以降である。連歌師として、生涯を各地への旅に費やした。川越では太田道真・道灌父子主催の「河越千句」に出座している。驚くのは、この時代、室町中期の連歌熱だ。宗祇は晩年に連歌集『新撰菟玖波集』を編むが、九州の八代の武士からは早馬をもって自薦句集が届けられたという。

 宗祇は応仁の乱を避けて、一時定輪寺に身を寄せたこともある。もう一度富士を見たいという宗祇生前の願いをかなえるべく、弟子たちは箱根の山を越えて、縁の定輪寺まで亡骸を運んだ。私が行った時、寺には人影はまったくなかった。宗祇の墓石は、北西の方角、富士を向いていた。しかし、樹木にさえぎられ、富士の姿を見ることはできない。

 寺には板に書き連ねられた歌が掲示されていた。連歌ではなく、地元の連衆による連句であった。卑近な日常を詠み、三六韻ですますことができる連句の方が親しみやすいのだろう。連歌から誹諧連句へ、連句の発句が独立して俳句へと発展して行く。

 連句をやってみたいと以前から思っていた。今年初め、句仲間を誘ってみたら、二つ返事で乗ってきた。現在連衆は男女3人ずつの6名で、メールをやりとりしながら、今までに3巻の歌仙を巻いた。連句にも月と花と恋の句は決まった場所に入れるといった細かい規則はあるが、期待した以上に面白く、楽しい。前句につけながらも、飛躍し、変転して、世の中のあらゆる事を詠み込む。

 最新の歌仙「朝の日の」の一部

その昔へくそかずらのやうな恋 み
 旅装を解いて三里の灸を   肇
海原の鳥かぎ形に月灯り    恒
 二百十日も明けぬ夜のなし 陽

    2017-10-19 up


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