2015年6年  課題:「ベストセラー」


東海道中膝栗毛

 伊勢詣でを思い立った弥次さんと喜多さん。三島の宿で飯盛女を相手にする。驚いたのは、旅籠の一室に小屏風を立て、弥次喜多がその陰でそれぞれ一夜を楽しむ。しかも、このときは道中で知り合ったもう一人の男性も同室なのだ。弥次さんが朝起きてみると、持ち金をそっくりその男に持って行かれていた。次の日は、蒲原まで行くが、金がないので木賃宿に泊まる。老夫婦がやる木賃宿には、巡礼の父と娘も泊まっている。亭主や男どもは下の一室に寝て、娘と老婆は二階に寝る。喜多さんが夜中に二階の娘の所に忍んで行く。真っ暗いなかで潜り込んだ蒲団は老婆の寝ているところだった。慌て逃げ出す喜多さんは、安普請の木賃宿の床を踏み抜いてしまい、下の仏壇の中に落ちてしまう。次の府中(静岡)で、弥次さんは知り合いから旅銀を調達できるのだが、その晩彼らは早速安倍川の遊郭に繰り出す。

「弥次喜多」といえば、今でも滑稽なコンビの代名詞と使われるほどだが、その旅の実情はあまり知られていない。もう一つのコンビ「助さん格さん」はテレビドラマ化されているのに、不思議だと以前から思っていたが、上のようなエロとナンセンスの続く弥次喜多道中ではとても茶の間に流すわけにはいかない。まして学校の古文の教材などとんでもない話だ。

 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の初編の出版は享和2年(1802年)。江戸から箱根まで。これが評判だったので、次々に続編を出し、二人が伊勢詣でを終え大阪に着く第八編下が出たのは文化11年(1814年)。当時のベストセラーである。

 一九は初編の書き出し部で、今の世を「毛すじ程もゆるがぬ御代」で、鎧武者は錦絵の中にのみ見られ、弓も木太刀も額にして神社に納められているこの国は「堯舜のいにしへ、延喜のむかしも、目撃(まのあたり)見る心地になん」と徳川体制を讃える。さらに別の所では、太平の世を具体的に記す。「往来の旅人、互に道を譲合、泰平をうたふ。つづら馬の小室節ゆたかに、宿場人足其町場を争はず、雲助駄賃をゆすらずして、盲人おのづから独行し、女同士の道連、ぬけ参の童まで、盗賊かどはかしの愁にあはず。」

 江戸っ子の弥次喜多は気が短く行く先々で喧嘩をするが、一九自身によるたくさんの挿絵に描かれた弥次喜多の表情はそんなときでも明るい。

『東海道中膝栗毛』の1年後、杉田玄白は『解体新書』翻訳の苦労を語った『蘭学事始』を出す。玄白は一九をさらに進めて、蘭学がこのように隆盛を見たのは、世の中に戦乱がなかったからであり、これは神君家康が、天下を一統したからであり、その恩沢は数ならぬ自分の身まで及んでいると、家康を絶賛する。

 江戸後期に関する本を読むたびに、19世紀初頭、いわゆる化政の江戸は人類史の一つの奇跡、楽園のように思われる。優れた知識人であった一九も玄白もそのことを告白している。そして弥次喜多はその楽園を満喫する。

 当時の将軍は11代徳川家斉。在位50年という記録をもつ。政は老中に任せきりで、自身はひたすら子作りに励み、53人の子をもうける。上がこうであるから弥次喜多の色好みも非難できない。誰も家斉を名君とは呼ばないが、こういう将軍治下の方が庶民は幸せかも知れない。


補足
 私が読んだ岩波文庫版『東海道中膝栗毛』は上下2巻で、600ページにもなる。初版は1973年、2004年刊は36刷である。

 弥次喜多はこの後、金毘羅参詣、宮嶋参詣の後、木曽路から善光寺を詣で、中山道経由で江戸に帰る。『東海道中膝栗毛』の続編として、これらの旅も出版されていて、弥次喜多が江戸に帰ったのは実に文政5年(1822年)、足かけ21年の旅であった。

 下重暁子さんの最新刊『家族という病』が、今ベストセラーとなっている。今回の課題はそれにちなんだもの。

   2015-06-19 up


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