突然、母を黄泉路に送った。七十八歳。世の平均からすれば過不足はないのかもしれないが、自分の母親だけはという油断があった。あの笑顔をもう一度見たいと、今頃になって思う。
骨粗鬆症(こつそしょうしょう)のようなものかと思うが、二十年以上前に手術した足の再手術を春にしたばかりだった。リハビリの結果もよく、久しぶりに杖なしで歩けるようになったと喜んでいただけに、もう少し歩かせたかった、吟行にも行かせたかった…と悔やまれてならない。
誰にとっても、自分の母親というのは特別なものだが、わたしたち兄弟にとって、とりわけ大きな存在だった。戦後、大阪に移ってからしばらく、父か母かどちらかがいつも病床にあるという状態が続いた。食糧難を反映して二人とも結核だった。わたしの場合も卒業、入学の報告はいつも病院に出向いていた。初めて正月に家族が揃ったのは高校のころだったように思う。そういう中で息子三人を育てるのは並大抵のことではなかったろう。振り返ってみても、母の奮闘努力のおかげでなんとかここまで来れたのだと思う。そういう母の後ろ姿を見てきたから、母だけは悲しませたくない、という一点で共通して兄弟三人それぞれの人生を処して来たように思う。
母の句集を編むにいたったのは「こどもたちがまとめてくれるだろうから」と日記と句帖を日頃からまとめていたことによる。父が亡くなったとき、父が書きためたエッセーなどをまとめた小冊子を出したのだが、このことから、母は息子の仕事はこれと決めてくれていたらしい。採集した作品は句帖をめくりながら、思うがままに選ばせてもらった。こんな句を撰んで…と母に言われるかもしれない。
句をみて思うのは、人柄がよく出ていることである。何ごとにも感謝する母だったが、天真爛漫、人や動物に対する優しさ、神や仏に対する敬虔な思い、心象風景の描写も母らしい。ついつい捨て難く数多くの句を採ることになった。
句集のタイトルは「天よりは雪の散華よ夫の葬」からとった。夫恋いの気持とみちのくの雪の味わいがふさわしいと思った。題字は次男、虔二の妻、和代さんの手になる。
巻頭、悼句をいただいたのは、俳句仲間「むらさき会」の方々。藤澤典子さんは関西文壇の重鎮だった作家、藤澤恒夫氏未亡人である。氏はわたしが産経新聞社に入社するときの保証人でもあり、ご夫妻には親子でお世話になった。
「七曜」に掲載された自選五〇句には、全国から多くの方が共感句を寄せられているが、一番多くの方が選ばれたのが、次の句だった。
新盆の夫に会ふため粧へり
この句に出会ったときは胸がいっぱいになった。とにかく父を大事にしていた母だった。九つ違いで、奇しくも同じ七十八歳で亡くなった父は、寡黙であったが、満足して感謝しているだろうと思う。息子から見ても、父はよい伴侶を得たと思う。
そのほか共感句としてあげられた句を多い順に並べると左のようになる。三番目の句など、やや独語癖があった母らしい。雪の向こうに話しかけているようだ。
白鳥の胸でこはれる花筏
腰曲るまで紙漉きて紙が好き
ひとり居に降りゐる雪は言葉なり
雪降る降る天壽たりとも母死ぬな
円空仏寒気の芯に立ち給ふ
散る花を仰げば上より上より散る
およそ人おじしない性格で、電車に乗っていても、いつのまにか隣の人と話はじめているような人だった。息子の同級生にもこの調子で、兄弟三人の友人が数多く家に出入りした。しかも適性を見抜くところがあって、今回一文を寄せてくれた東大教授(比較文学比較文化研究室)、川本皓嗣氏は大阪、住吉高校の同級生だが、早くから「いい学者になるわよ」といっていた。だから、息子には言わない俳句の話もしていたようで、川本教授の文章を拝見して今回初めてその交流ぶりを知った。川本教授はその著書「日本詩歌の伝統」(岩波書店)で〈本年比較文学界最高の収穫〉と言われた業績をあげ、平成四年の《小泉八雲文学賞》や《サントリー文学賞》をつぎつぎと受賞した比較文学の俊英である。著書の中に俳句論もふくまれている。その専門家に母の俳句を語っていただいて、その明晰さに感銘を受けた。文中の句が掲載した句と少し違うのは、その後の母の推敲によるものと思う。
もう一人の畏友、阿部義章氏はワシントンで世界銀行の日本人初の局長として活躍しているが、この夏(平成五年)、休暇で一時帰国した際ぜひ話たいことがあるという。寿司屋で話を聞くと、東北新幹線で福島を通りかかったところ「米沢方面乗り換え」のアナウンスを聞いた。そのとたん思い立って下車、夫人ともどもなつかしい米沢に何十年ぶりに立ち寄ったという。「その昔僕が米沢に行ったきっかけは、君の母上が、入学試験が終わったご褒美にとわたしの母を説得してくれて、自分の故郷に招待してくれたからなんだ」と、しばし母の思い出話に花が咲いた。その故郷、米沢への思いは強く、
みちのくの冷えのこもりし林檎着く
の句のほかたくさん出てくる。
米沢で過ごした娘時代は祖母の方針であらゆる習い事をしたようで、あるとき、鼓にまで素養があることを知って驚いたことがある。声楽はほんとに好きで、若いころ声楽家を志したようだし、後年、息子たちの学校の音楽の先生が声楽家なのを知ってただちにこの方について練習を始めた。松坂屋での発表会などによく連れて行かれ、「蝶々夫人」の〈ある晴れた日に〉などを聴かされたものだった。ただコロラチュラソプラノで、あまりに音が高いものだから、母が練習を始めると隣近所を思って子供心にも心配したものだ。終戦直後で音楽どころではなかった頃だ。息子三人にピアノ、バイオリンなどを習わせ合奏させて自分が歌う夢を持っていた。この夢は不幸にして三男が練習にヒステリーを起こしてバイオリンをへし折っておしまいになった。日記を見ると亡くなる直前までキャスリーン・バトルのCDを聴いている。声楽といい俳句といい一生勉強するものをもち続けた点も、母を尊敬するゆえんである。
女性としての母の一生はごく平凡だが、立派だと思うのはずっと文化の香りがすることである。私は新聞記者として過ごしてきたが、母のほうがよほど教養人だと思う。
母を喜ばす一番の方法は音楽会の切符をプレゼントすることだった。取材した縁でピアニストの中村紘子が招待してくれた演奏会に嬉々として行ったし、同じく招かれた童謡の真理ヨシ子のリサイタルにまで出掛け、感想を手紙に書いてよこした。新聞などの批評の受け売りではなくいつも自分の感性で的確に表現するので感心することが多かった。その母が突然の電話で「なにがなんでもキャスリーン・バトルのテープが欲しいの」と言ってきたことがある。朗々と歌うニッカのCMが流れはじめたばかりでレコード類が市販されてない時だったので、ニッカウヰスキーの広報室に頼んでデモテープを直送してもらった。大ヒットする前の話で、母の〈敏感な〉反響に喜んだニッカが、その後バトルが来日したおり、大阪でのリサイタルに招待してくれた。その喜びようは大変なもので、何日も前から体調を整えて出掛けたことが日記に記されている。
その日記にしばしば父を偲ぶくだりが出てくる。子供から見ても、「お父さま、お父さま」となにかにつけ父を大事にして、仲むつまじい夫婦だった。ともに大病をした思いが互いをいたわりあう心情を育てたのかもしれない。
九州・唐津の父と、東北・米沢の母がどうして一緒になったのか、息子に説明したことはなかったが、叔母によると、禅の修行をしていた父が師について米沢に出掛けたところに、祖父に連れられた母が参禅したのが縁だという。「一目ぼれしたのよ」と叔母の説明だ。父でなく母の一目ぼれだという。いずれにしても、息子としては、仏さまのお導きというほかない。
最後を看取ったのは三男だった。一人暮らしの母は前夜から体の痛みを訴えていて、呼ばれた裕が日ごろお世話になっている近しい方三人ほどと、さすったりしていたが良くならないので、早朝救急車で病院に運んだ。この日は日曜で、異常もないようなのでしばらく様子を見て明日から検査しましょう、といわれ自宅に入院用品を取りに戻った。歯ブラシなどをそろえている最中に病院から「いま心停止です」との電話に仰天した。
父は母がイチゴを取りに台所に立った間にこと切れた。二人とも病院で長患いする事がなかった。現代では希有のことである。もって瞑すべきか。 (了)