2012年10月    課題:癖

鼻唄は昭和の歌謡


                             
「Mr. Kaneko, you like music」(金子さん、あなた音楽お好きですね)とM夫人に言われて私はドキッとした。仕事でスイスのジュネーブに半年ほど滞在していて、取引先のM氏からベルンの自宅へ週末泊まりがけで招待された時のことだ。私には一人で何かしているときに、独り言を言うか、鼻唄を歌ったり、ハミングする癖がある。気がついてみると、近くに人がいることもよくある。異国に単身いたから、話し相手も少なく、当時はこの癖が特に高じていたのだろう。M夫人とは会ってまだ数時間しかたっていないのに、早くも私の癖を見抜かれてしまったのだ。M氏宅に招かれて心が弾んでいたから出た鼻唄で、相手に不快感をあたえたとは思わなかったが、それにしても恥ずかしかった。

 あれから30年以上が経つが、私の癖は治らない。本格的に家庭菜園をやり出したここ10年ばかりは、一層ひどくなった気がする。草取りや、キヌサヤエンドウの収穫など、単調で退屈な作業をしているときは、必ずといっていいほど、歌が自然と出てきて、口ずさむか、ハミングするか、あるいは口笛を吹いている。菜園への行き帰り、自転車をこいでいるときもよく口すさんでいる。

 どんな歌が口の端に上っているのか、注意してみた。色々な歌を口ずさんでいるのに驚く。「勘太郎月夜唄」「矢切の渡し」「星の流れに」「北国の春」「喫茶店の片隅で」「妻恋道中」「南海小学校校歌」「沖縄を返せ」など。さらには「テネシーワルツ」や「菩提樹」といった原語の歌、あるいは「サントリー純生」のコマーシャルソング。

 こう挙げてみるとお互いに関係のない歌だ。ただ、一つ共通するのはいずれも若いころに耳にした歌で今どきの歌に比べて、スローでメロディーが覚えやすく、歌詞もわかりやすい歌であること。歌謡曲に関していえば昭和歌謡だばかりだ。

 歌うのはその曲のさわりの部分だけのことも多い。例えば「星の流れに」では「星の流れに身を占って」と始まり、途中の歌詞はうろ覚えだから、ハミングで飛ばし、最後のさわり「こんな女に誰がした」と続く。

 この中で一つだけ条件反射的に口に出てくるのは「沖縄を返せ」だ。播いた作物の種子から小さな芽が地上に出て来たのを目にすると、「固き土を破りて 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ」という歌詞が出てくる。それ以外の歌は、その時の外的条件とは無関係に出てくる。「影か柳か勘太郎さんか」と「勘太郎月夜唄」の出だしが口に上る時と、「連れて逃げてよ」と「矢切の渡し」を歌い出す時の私の心理状態、気分には特に差があるようには思えない。

 癖というのは無意識が支配する現象だ。とすれば、癖はその人の本性に深く関わっているのだろう。私の場合、内向きの性格で、独り言も歌も自分自身に語りかけているのかも知れない。
 
 癖の深層心理の解明はそんなに難しくないだろう。無意識に口に上る歌が「矢切の渡し」ではなく「勘太郎月夜唄」である時、私の深層心理はどのように動き、私の脳内のどのようなプロセスがそれを引き起こしているのか。極めて興味深いが、今世紀中にはまず解明できない気がする。

   2012−10−17 up


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