2012年9月    課題:パレード

馬の足


                             
 パレード。そんな華やかで、誇らしげな行進に私は加わったことがあるだろうか。古代ローマの時代から、パレードといえば凱旋の祝賀行事だ。塩野七生はその著『ローマ人の物語』で、ローマ人として生を受けた男にとって最高の栄誉は、凱旋式を挙行することであったと述べる。アフリカ戦役を勝利したカエサルは、4頭の白馬の引く戦車に乗り、ローマ市民の歓呼の中を進んだ。彼の後には彼の軍団、戦利品、そして囚われの敗者が続く。先日のロンドンオリンピックメダリストの銀座パレードでは、選手の胸には金銀銅のメダルが輝いた。こうしたパレードとは私はもちろん無縁だ。

 パレードをもう少し拡げてみよう。デモ行進はどうだろう。第1次、第2次を通して、反安保デモには何回か参加したが、あれはパレードとは言えまい。メーデーにも数回参加した。メーデーを労働者の祭典、労働者の力を誇示するお祭りと考えれば、パレードに近い。ただ、パレードというには、沿道の観衆から熱狂的に迎えられ、喝采を浴びるような要素は極めて乏しい。

 むしろ祭の御輿や山車の練り歩きのほうが、パレードといえる。しかし、私は御輿を担いだことも山車を引いたこともない。祭をわざわざ見に出かけたという記憶も数えるほどしかない。華やかなものが好きではないようだ。

 いろいろ記憶の襞を辿ってみて、一つだけ思い当たった。高校の体育祭の仮装行列だ。仮装行列は立派なパレードといえるだろう。体育祭で徒競走などの種目に混じって、クラス対抗の仮装行列というのがあった。クラスごとにアイディアを競った。企画が出来上がり、皆でキャストを決めた。私は馬の足になることを自ら申し出た。人前で仮装して演技することなど、私にはとても向かないし、クラスでの私の立場ともよく合う役どころだと思った。馬は3人で組んだ。1人が立ち頭と首を、その腰に1人がとりつきさらに後ろにもう1人とりついて胴体から尻の部分を作る。3人で組むから足が6本の馬になる。私は一番最後の足を務めた。紙でできた馬のかたちの中に入った私達は、観客からは足しか見えない。

 馬上は髭を生やした将軍であった。どんな企画で、前後をどんな仮装が行進したのかも覚えていない。6月の強い日差しの中、トラックを1周したが、前屈みの姿勢がきつかったことだけを覚えている。

 高校時代の私はクラスの旗振り役などとは無縁で、全く目立たない存在であった。社会に出てもそうした私の性向は変わず、自らの影の薄さを感じる経験には事欠かなかった。その私が今年、高校の学年同期会の幹事役を頼まれた。幹事のひとりが亡くなり、その後任としてだ。10回近く行われた同期会に、私はすべて出席している数少ないひとりで、それで幹事を頼まれたのだろう。

 先日、幹事会の出欠メールが幹事長より送られてきた。出席の返事は出してあったが、出席予定者に私の名前がなかった。その代わり幹事ではない I さんの名があった。I さんは仮装行列でともに馬の足を組んだ相手だ。後で、I さんと私を間違えたと幹事長からわびのメールがあった。

 メールを読みながら、私の影の薄さは、生涯変わらないと苦笑した。

   2012−09−26 up


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