2012年8月    課題:酷暑

細久手宿大黒屋


「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、堪え難き事なり。」徒然草第55段の出だしだ。

 およそ700年前に兼好法師が指摘した家作りの原則に従っていれば、蒸し暑い夏を原発などに依存しなくても過ごせたであろう。

 私が戦中と戦後の一時期を疎開していた豊橋の母の実家は、明治の末に作られた農家だが、今思うとまったくこの原則に沿っていた。間口9間半、奥行き5間半というから、建坪50坪を超す大きな家だが、私の記憶では部屋を仕切る壁というものがなく、襖、障子、木の引き戸で仕切られていた。地面から50センチはある高床で、南側には1メートル以上ある内縁があった。南側には土間の他に3部屋が並んでいたが、夏になると襖も障子も開け放ち、家の前に広がる畑の上を通った風が吹き抜けるのに任せた。

 2010年7月22日、伝統家屋に泊まる機会があった。中山道の細久手宿にある大黒屋旅館だ。中山道は塩尻から木曽路を南下し、美濃の中津川に出る。中津川の先、大井宿(恵那市)から御嵩宿までは東美濃の丘陵地帯を通る。この30キロ余りの山道は、鉄道路線や幹線道路からはずれていて、途中で一泊しなければならないが、大黒屋旅館しか泊まるところがない。

 横浜から名古屋経由で恵那駅に着いたのは9時半。駅前の温度表示はすでに35度を示している。細久手まで約20キロ。途中に大湫(おおくて)宿がはさまる。大湫までは十三峠という山道だ。峠を13越えるという意味だ。人の気配のない山道を黙々と歩く。2時間ほどまったく人には会わなかった。大湫は和宮が江戸に下るときに泊まった宿場だ。両側に古い家並みが続くが、照りつける真夏の太陽の下、町並みは死んだように静まりかえっている。

 大湫から琵琶峠を越え、午後5時、細久手宿の大黒屋旅館に着く。勝手口から現れた女将に案内されて、開け放たれた玄関を潜る。式台があり、寄付きには衝立が立つ。寄付きから一段高くなった次の間そして奥座敷と続いている。

 大黒屋は宿場の本陣とは別に、尾張家定本陣としてつくられたもの。うだつの建つ木造2階建てで、現在の建物は安政年間に造られた。

 ひと風呂浴び、夕食は奥座敷上段の間。床の間、書院付きの10畳。尾張の殿様用の部屋だ。床の間にある葵の紋を背に食卓に向かう。仕切りのない次の間には同年配の男性が食卓に向かっていた。先祖が水戸天狗党に属していて、その跡をたどって、天狗党最期の地、敦賀まで歩くのだという。

 私の部屋は街道に面した2階の床の間付きの8畳。三方を廊下で囲まれている。道路側には網を張った格子窓。部屋のテレビは今日、すぐ近くの多治見で39.4度を記録したと伝える。9時過ぎ、三方すべてを開け放して寝る。贅沢な作りとはいえ、伝統家屋の良さ、冷房などなくても快適だ。

 翌朝、カナカナ蝉の声に起こされる。母の実家でのすがすがしい夏の朝の感覚が全身によみがえった。

 大黒屋がこれからも長く続くことを念じながら、次の宿場、御嵩に向かった。

 参考 
 大黒屋のホームページ


   2012−08−22 up


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