2012年6月    課題:広告

二つの広告

人生の転機となる新聞広告との出会いが、私には少なくとも2回ある。

 一つは1985年早々の『ニューズウイーク日本版』の翻訳者募集。理系の研究職として大手企業でサラリーマン生活を送っていたが、組織に頼らず、自分の腕一本にかける仕事への漠然とした思いがあった。元々英語は好きであったし、仕事では英語の論文に接する機会が多く、研究結果も英語の論文として発表していたので、力試しのつもりで応募した。

 筆記試験と面接があった。多分、理系の人間であるということが珍しがられたのだと思う、受かってしまった。それ以来、サラリーマン生活の傍ら、毎週日曜日『ニューズウイーク日本版』の編集局に出向き、英文と格闘することとなった。17年後の2002年にリストラされるまで、この仕事は続いた。

 上役の顔色を窺うことも、部下の機嫌を取る必要もなく、ひたすら原稿用紙を埋める。埋めたマス目の数がそのまま報酬となり、その上自分の訳したことが多くの人の眼に触れる。それは私の誇りとなり、自信となり、サラリーマンなどいつでも決別してやるという開き直りとなった。そう開き直ると、サラリーマンの身分も悪いものではなく、定年まで続けてしまった。

 もう一つの出会いは、NHK文化センターのカルチャー教室の受講生募集。その中にエッセイ教室があった。講師は元アナウンサーの下重暁子さん。1994年の秋のことだ。

 ものを書くことへのあこがれは若いころから持っていた。当時55歳の私は長年勤めた親会社から、子会社へ職場を移って2年余り。サラリーマンとしては先が見え、今までの人生を何かの形で書き残しておきたいという気持ちがあった。即座に受講申し込みをした。私が2番目の申込者で、受講生番号2番。

 毎月1回、決められたテーマで1400字程度のエッセイを書き、それを教室で読み上げ、講師を中心に相互にコメントし合う。受講生は25人ほど。

 教室は今も続いており、今年の10月からは19年目に入る。私は毎月欠かさず作品を書いてきた。2002年にはそれまでの作品を『冬至の太陽』という本にまとめて出版することが出来た。

 書くことにより何が変わったか。ものを見る目が確かに変わった。書くことを前提にものを見ると、今まで見過ごしていたことが目にはいるようになった。例えば、散り積もった桜の花びらの上を歩く人の足の動きに連れて、生じるエアポケットが花びらを巻き上げる現象や、夏に貯水槽の底に作るアメンボのクローバーの葉のような不思議な影など。そうした発見に私の心は躍った。人生がずっと豊かになった。

 2003年にはホームページを作り、そこに毎月のエッセイをアップしている。月1本のエッセイ書きは私の老後を支えている。そして、教室を通じて知り合った多くの人々は私の大切な財産である。

 二つの出会いに単なる偶然を越えた運命的なものを感じる。二つの広告は向こうからやってきたのではなく、私の潜在意識が求めて出会ったのだと思う。

              2012-06-20  up


エッセイ目次へ