2011年2月課題:節分

鬼がいなくなった


   
 日本に元気がない、このままでは衰退の一途をたどるのではないかという悲観的なムードが漂っている。生来楽観的な私は日本が衰退するなどいう不安や心配は抱いたことはないが、最近の社会に少し元気がないと感じることはある。何がそう感じさせるかと自問してみる。私なりの答えは「鬼がいなくなったこと」だ。あえて言えば「鬼を追い出してしまったこと」だ。

 鬼とは、ホリエモンこと堀江貴文、元横綱朝青龍、そして小沢一郎。三者とも自らの不祥事が原因でつまずいた。しかし、そこに到るまでの間に、「鬼は外」とばかりに世間が彼らに投げつけた豆はおびただしい数に上がる。

「額に汗して働く庶民を尻目にマネーゲームで巨額の富を手にしたのはけしからん」というのが堀江貴文に投げつけられた典型的な非難だ。堀江はインターネットを土台にして、新しいメディアの形態を創り出すために、資金を集めたのだと私は理解している。能力のあるものが金を集め、新しい事業を興していく。それを否定していては社会は停滞する。プロ野球が現在の12球団、2リーグ制を維持できているのは、彼が近鉄球団の買収に名乗りを上げたからだ。

 朝青龍は文字通り土俵の鬼であった。相撲は「心技体」と言われているが、この言葉は朝青龍のためにあった。力士としては決して恵まれた体ではないにもかかわらず、あれだけの成績を残し得た理由は、なによりも彼の心の強さであり、ついで多彩な技である。勝負に対する執念と勝負後の天真爛漫な振る舞いが、私にとってはたまらない魅力であったが、マスコミや横綱審議会のメンバーには品がないと写った。2年前の初場所、3場所の休場を経て国技館に朝青龍が出てきたときの、館内の異常な熱気は、今の大相撲には見られない。

 昨秋、朝青龍の断髪式を見に国技館に足を運んだ。300人もの各界の有名人が土俵上の朝青龍の髷に鋏を入れた。その中に堀江貴文もいた。堀江は朝青龍の中に自分と重なるものを見ていたのだろう。

 小沢一郎には強権的なイメージがつきまとっていて、私は好きではなかった。しかし、一昨年の政権交代をもたらしたのは、彼の力量によると言っても過言ではなく、小沢を見直した。政権交代を可能にしたのは、小選挙区制度であり、それは細川政権によって作られた。考えてみれば、細川政権を動かしていたのは小沢である。小沢の目指したのは大企業と官僚と組織労働者の支配する世の中、つまり55年体制の打破、そして政権交代。小選挙区制度導入から15年後にそれを実現した。長期的な展望に立ちそれを実現できる大変な政治家だ。

 小沢への反感の根底に、彼の掲げる内外に開かれた日本というビジョンへの反発があるとすれば、それもまた日本から元気を奪う。

 堀江と朝青龍はもとのすみかに帰って来る気配はない。それぞれの新しい世界ではもはや鬼になることは出来ないだろう。

 小沢一郎の政治資金を巡る疑惑にはまだ司法判断の結論が出たわけではない。小沢には何とか留まってもらいたい。

          2011-02-24 up


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