2010年10月課題:闇 垣間見た旧共産圏 1978年の10月に、1週間ブルガリアの首都ソフィアに行ったことがある。たばこの研究者、技術者が研究発表を行い意見を交換する二年毎の国際会議に参加するためだ。崩壊する前の旧共産圏へ行った唯一の体験である。 宿泊したのはフランス系のホテルで、会議も同じホテル内で行われた。会議のオープニングセレモニーには農林大臣が来て挨拶したのに驚いた。この大臣は党第一書記の娘と聞いて、この国での一部の人々への権力の集中を感じた。 ブルガリアは農業国。中でも、たばこの占める位置はきわめて大きく、国を挙げて会議を歓迎してくれた。ソフィア郊外にあるヴィトーシャ山への半日のエクスカーションはベンツのバスを連ねて、パトカー先導でノンストップという国賓並みの待遇であった。バンケットには副首相も出てきた。 会議の進行はスムーズではなかった。オーバーヘッドプロジェクターでスクリーンに映し出された、赤い文字が見る見る色あせていき、ついには消えそうになったことがあった。透明なシートに書かれた原稿の赤インクが、プロジェクタの強い光で分解して色が消えたのだろう。こうした日用品の品質は西側に比べてかなり落ちるように思えた。 ソフィアは樹木の多い街で、折から黄色く色づいた木々の葉が街を彩っていた。私達の泊まったホテルなど大きな施設は立派であったが、その他の建物は薄汚れていて、街全体が暗い感じがした。商店にある品物は種類も数も貧弱で、ショウウインドウの飾りもみすぼらしかった。食事もポークばかりでビーフがないと、アメリカからの参加者はこぼしていた。 会議の合間の市内観光で中心街の広場を歩いていると、中年の男性がすり寄ってきた。「ジャパニーズ?ダラー?」とその男は言った。話に聞いていた闇ドル買いだ。町中での闇ドル買いは当局のおとり捜査のことがあるので絶体に手を出すなと言われていた。「ノー」と言って私は歩みを早めると、男はあきらめた。ブルガリアの通貨はレバ。私達会議参加者にはドルを公定レートの1.5倍のレートで換えてくれた。社会主義体制でなければできないことだろう。闇ドルだと3倍くらいのレートで買ってくれるのではないか。たまたまドルショップの前を通った。中は見えなかったが、狭い入り口にまで人があふれていた。人々の生活は安定していて、物価も安いので、働いていればお金に少しは余裕ができる。しかし、品物がない。それで、電気製品などドルショップでしか手に入らないものを求めて闇ドル買いが行われるとのこと。 ソフィアからの帰り、ウイーンでスイスエアのDC9に乗り換え、座席に着いたとき、バルカン航空のソ連製TU134ジェット機とはまるで違うふんわりとした座り心地に、ああこれが西側だと思った。 他の東欧諸国と違って、民主化の動きもなかったブルガリアはソ連べったりの衛星国であった。しかし、19世紀半ばロシアによってトルコの支配から脱したというブルガリアの歴史を考えれば、それもやむをえないことに思われた。私はブルガリアの現状を嫌悪し軽蔑する気持ちなどにはなれなかった。 2010-12-01 up |
エッセイ目次へ |