2010年6月 課題:馬

シルクスキー

                              

 1980年11月23日、昨夜の雨も上がって薄日の差す東京競馬場に私はいた。第82回天皇賞。例によって、前日までに検討した馬券を購入して、パドック(下見所)へ向かった。ゆっくりとパドックを回っている11頭の出走馬が人々の肩越しに見えた。

 一頭の馬に私は息をとめた。牝馬でありながら500キロの雄大な馬体を、ビロードのような柔らかな栗毛に包み、気品にあふれた姿。「流星の貴公子」と呼ばれ、アイドルにまでなったテンポイント以上に美しいと思った。名はシルクスキー。関西の馬であったから、見たのはその時が初めてであった。

 パドックを回っているシルクスキーが西に傾いた秋の陽を逆光で浴びた。豊かに垂れた尾の毛の一本一本が、陽に透けて黄金の絹糸のように輝いた。シルクスキー。まさに人間が作り出した最高の芸術品ではないか。

 私が本命に買った1番人気カツラノハイセイコの気合い十分の2人引きの鶴首も、対抗としたホウヨウボーイの胸前の盛り上がった筋肉も、シルクスキーの前ではすべてかすんでしまった。ましてプリティキャストの不細工な斜眼帯や、何とはなしに目つきの悪いメジロファントムなどどうでもよかった。

 いつもの通り、ゴール前200メートルの2階観覧席の通路で観戦。

 シルクスキーの衝撃はまだおさまらなかった。衝撃は破滅への予感につながった。トーマス・マンの『ヴェニスに死す』が私の心をよぎった。ヴェニスに旅した初老の作家が、そこで出会った14才の少年の美しさに魅了され、迫り来る疫病にもヴェニスを立ち去らず、命を失う。私は自身をその作家に擬した。美に魅了されたものを待つのは破滅でなければならない。私の予感はシルクスキーの圧勝であり、もう一つは、まったく予想外の馬が勝つことであった。いずれの場合にも、私の馬券ははずれる。私は予感が当たることを望んだ。それがシルクスキーという美に殉ずることだと思った。

 レースは予想通りプリティキャストの逃げで始まった。スタンド前、2番手カツラノハイセイコ、3番手ホウヨウボーイ、そしてシルクスキーは最後方。プリティキャストが1コーナーあたりからグングン後続を離していく。どうせ人気薄の逃げ馬、深追いは禁物と他のジョッキーは考えたのだろう。向正面では差が7〜80メートルに開いた。場内騒然。3コーナーでもそれほど差が詰まらない。4コーナーを回った時はもうプリティキャストの逃げ切りは濃厚であったが、多くの人はカツラノハイセイコとホウヨウボーイの差しを信じていただろう。

 ゴール前200メートル、この2頭をかわしてプリティキャストを追ったのはメジロファントムとアラナスゼットであった。7馬身という大差でプリティキャストが勝った。当時の天皇賞は3200メートルの長丁場で、「長距離の逃げ馬」という競馬格言を地で行くようなレースとなった。

 後方から一気に差すタイプのシルクスキーはシービークロスを抜いたのみで10着であった。


補足
 
その年の有馬記念レースでのシルクスキーの巻き返しを期待したが、直前になって故障し回避した。結局天皇賞が最後のレースとなった。戦績は20戦6勝。なお、有馬記念を勝ったのはホウヨウボーイで、ハナ差の2着にカツラノハイセイコ。プリティキャストは最下位という結果だった。
 シルクスキーの父はミンスキー、ミンスキーの全兄はイギリスの3冠馬となったニジンスキー、という良血であった。2才時には最優秀牝馬に選ばれている。繁殖牝馬としての活躍が期待されたが、中央競馬でグレードレースを勝つような産駒は出さなかった。

              2010-06-16 up


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