2005年 4月 課題 「入学」

ニューズウイーク学校

 1985年春、『ニューズウイーク日本版』の翻訳者に受かってしまった。

 40代後半の当時、会社の研究開発方針になじまないものを感じていて、組織にとらわれない自由な仕事への漠然とした思いがあった。そんな時、新聞で『ニューズウイーク日本版』創刊に向け、翻訳者募集中の小さな広告を見つけた。力試しに応募してみた。

 送られてきたニューズウイークの記事を日本語にして送り返す1次選考のあと、試験会場で一定時間内に与えられた英文を翻訳する2次試験と面接があった。数日後、採用の知らせが来た。

 あとで知ったのだが、競争率は30倍以上とのこと。私が受かったのは理系の研究者で、多少バイオの知識もあることを買われたとしか考えられなかった。面接の時、後に初代編集長になる浅野輔さんから、「最近はバイオの記事も多いのでその方面をお願いしたい」と言われた。

 翻訳者は全部で30人ほど。プロの翻訳家、大学で英語を教える人、通信社の外信部の人などで、私のように英語を専門としない技術系のサラリーマンはいなかった。日曜日に編集局に集まり、衛星回線でニューヨークから送られてくる原稿を翻訳する。その翻訳文をもとに編集者が記事に仕上げる。

 私は科学記事を主体に翻訳するものと思っていたが、実体はまったく違った。原稿の到着順に翻訳し、日曜日中に翻訳を終了するため、1本の記事を分割し、何人もの翻訳者に割り当てる。従って翻訳者の得意な分野を考慮している余裕がなく、あらゆる分野の記事が割り当てられた。

 元々英語は好きであった。職場では英文の学術論文を読むのは日常のことで、研究論文も英文で発表した。多少は出来ると思っていた英語も、狭い専門分野の語彙が限られた英語で、ニューズウイーク誌のような一般週刊誌の英語は別であった。すらすらと鉛筆を走らせる他の翻訳者の中で、私は一人辞書と首っ引きで悪戦苦闘しながら、アメリカの政治や経済を扱った記事と取り組んだ。とにかく語彙が不足している。そのうえ訳文が直訳調で日本語として読みにくい。私が1本を仕上げる間に、他の翻訳者は2本の原稿を仕上げる。場違いなところに飛び込んだと思った。しかし、せっかくのチャンス、ニューズウイーク翻訳学校に入学したのだと思うことにした。

 それから本腰を入れて英語の勉強をした。ポケットに単語カードを忍ばせ、暇を見ては単語を覚えた。翻訳の通信教育を受け、ペーパーバックの原書でグレアム・グリーンやクリスティーなどたくさんの小説を読んだ。50の手習いで進歩は遅々としていたが、5年ほどすると、少し自信のようなものが出来た。

 英語の勉強になり、世界の最新の動きに接することが出来、何よりも少なからぬ小遣い稼ぎになった毎日曜日のこの翻訳を自分からやめることはしなかった。しかし、『ニューズウイーク日本版』は91年の湾岸戦争の時をピークに、その後の不況のあおりを受け、発行部数が減少し、私は3年前、リストラされて、17年間の「学校生活」に終止符を打った。


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