2009年11月 課題: 記念日

サラダ記念日


                              
 Iさんをランチにさそった。東京タワー下のイタリアンレストランのテラス席。Iさんのいるオフィスビルからは横の階段を上がって裏道を行けば5分ほどという近さだ。着いた席から見上げると、赤い東京タワーの鉄骨が真上に倒れかかって来るような錯覚に襲われる。店内はざわついていて、テラス席のせいか、テーブルも椅子も粗末で、素敵な美女とのせっかくのランチなら眺めよりももっとムードのあるところが良かったかと思われた。

 この秋で16年目に入ったNHK文化センター下重暁子のエッセイ教室の受講生には、魅力的な女性が多い。Iさんもその一人で、大手企業の管理職。知的で、詠嘆とか感傷を排した彼女の作品に私は共感を覚え、優れた言語感覚に裏打ちされた詩情豊かな表現力をうらやましく思った。教室での相互批評のコメントも鋭く、私の作品がずばりとポイントを突かれ感心したことは再三だ。

 Iさんはストレートの髪を肩まで伸ばし、若く見えた。ある作品で彼女は高校生の時に市川房枝にインタビューしたことを書いてきた。彼女と市川房枝では時代が合わないと思った講師の下重さんが、ずばりIさんの年齢を聞いた。何のためらいもなく、彼女は年齢を口にした。瞬間、教室がどよめいた。私は30代半ばと思っていたが、それよりも10うん歳上だった。Iさんは教室を3年でやめた。ランチをしたのは彼女がやめて1年と少し経った時だった。

 私は海鮮パスタ、彼女は肉料理を食べながら、私は教室や受講生の近況などをしゃべった。Iさんは、教室をやめたら、すっかりものを書かなくなってしまって、と嘆いた。少し前に、会社を休んで埼玉の方の美術館に渋澤龍彦の美術展を見に行ったという。渋澤が愛好した美術品の特別展で、感激したという。渋澤龍彦の本は2,3冊読んだことがあるので、私は「渋澤龍彦って誰?」と聞かなくてすんでホッとし、そのようなマニアックな展覧会にも行くIさんの旺盛な好奇心に感心しつつ彼女の話に耳を傾けた。彼女は古典芸能にもくわしく、能面のことや歌舞伎のことを作品に書いている。歌舞伎座で「○○屋!」という間の手を1度でいいから入れてみたいと言っていたこともあった。

 昼休みの1時間は瞬く間に過ぎて行く。私はIさんに、今朝自家菜園でとってきたミニトマト、インゲン、紫タマネギを手渡した。いつものように飼い猫のランに4時過ぎに起こされたので、今朝はそのまま起き出し、早朝の菜園に行った、と話した。食事を終え、それぞれに勘定を済ませ、店を出る。Iさんのオフィス前で別れて、私は、かつて身を置いた業界の用語辞典の編集会議がある虎ノ門へと、桜田通りを北へ向かった。

 翌日、Iさんからメールが入った。最後はこう結んであった:

 美味しいお野菜を本当にありがとうございました!!すっごく美味しかったです。(紫タマネギはとってもお気に入りです)
「朝霧の野菜を君が贈ってくれたから 七月三日はサラダ記念日」

 私の心は高く、高く、テレビ塔よりも高く舞い上がってしまった。


                              2009-11-18 up

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