2009年4月 課題:東京タワー 弁天池と増上寺 東京タワーが出来てから50年経ったという。私は登った記憶がない。桜も過ぎた4月の中旬、登ってみた。 地上250メートルの展望台には際限もなく広がる大都市の景観があった。林立する真新しい高層ビル。平面だけでなく、人びとは空間をも埋め尽くそうとしている。地球上に存在する何百万という種の一つにしか過ぎないヒトが、これだけの場所を独り占めにしていいのだろうかという思いが胸をよぎる。 東は新橋・汐留から銀座方面へと、北は霞ヶ関、赤坂、新宿副都心、西は澁谷・恵比寿から横浜方面へと、ぎっしりと建物が繋がる。わずかに東南方向だけが、海により建物の連鎖が断ち切られていて、ホッとする。東南の眼下には芝公園の緑と増上寺の本堂と脇に並ぶ建物の黒い屋根が安らぎを与える。 私は東京タワーが出来上がる2年半前まで、タワーの南NECビルのすぐ近く、現在の地下鉄三田駅の真上に住んでいた。小学生の頃、私たちの行動範囲の北限は芝公園・増上寺であった。芝公園の西端、赤羽橋交差点際に弁天池があった。私の記憶にある弁天池は、円形で中心に小さな祠を祀る島があった。堂守はうるさいおじさんで、池に住む銭亀を捕りに来る悪童達を怒鳴りながら追いかけ回していた。池の西側は道路を隔てて愛宕山へ続く台地になっていた。私はついぞこの台地には足を踏み入れなかった。それでいて、緑に覆われた台地の斜面の記憶は鮮明に残っている。あるいは未踏の地だからこそ記憶が持続したのかも知れない。東京タワーはこの斜面のすぐ上に建てられた。池の東側も丸山古墳があって小高くなっていたのだが、風景の記憶は残っていない。弁天池から丸山古墳一帯の藪が私たちの遊び場であった。 ある時、インディアンごっこをやった。悪者のインディアンを騎兵隊がやっつけるという西部劇をまねた遊びだ。インディアン役にされたクラスメートを捕まえて、弁天池の端にある大きなケヤキに縄で縛り付けておいた。しばらくして通りかかったおじさんに、こんなことをしてはいけないと叱られた。インディアンごっこだからだと抗弁したが、認められず、結局縄をほどいた。 増上寺は大半が空襲で焼け落ちた。クラスメートの中には焼け跡の土を丹念に掘り返し、青くさびた銅の固まりを探し出して、くず鉄回収商に売って小遣いを稼いでいるのもいた。朝鮮戦争が始まり世の中金偏ブームの頃で、中でも「アカ」と呼ばれた銅は高価だった。町をリヤカーを引いておじさんが金属類を回収していた。私も、路上で拾った電線屑などを集めておいたものをくず屋のおじさんに持っていった。予想外のお金がもらえて驚いた。お寺の建物は銅をたくさん使うから、この焼け跡は宝の山だったのかも知れない。 赤羽橋から東京タワーに向かう道路脇に、弁天池は今もあった。南北に細く入り組んでいて、真ん中に祠などもない。周囲には樹木が生い茂り、暗く、私の記憶にある明るく開けたイメージとはほど遠い。多分作り変えられたのだろう。とはいえ、弁天池が残っていて、復興された増上寺とともにビル群の侵攻を食い止め、安らぎの空間を作っていることがうれしかった。 写真 左上:弁天池 右上:特別展望台(地上250メートル)から見た増上寺と芝公園(右上) 左下:特別展望台から見たレインボーブリッジとお台場方面 右下:大展望台(地上150メートル)から見た増上寺と芝公園 250メートルとは見え方がかなり違う 2009-04-22 up |
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