2009年1月 課題:干支 八百屋お七 正月の3日、日本橋から蕨まで旧中山道を歩いた。街道沿いにはたくさんの神社や寺がある。神田明神と巣鴨の高岩寺、いわゆるとげぬき地蔵にお参りして初詣とした。 本郷の追分けで旧日光御成道と別れてしばらく進むと、右側に正面に「大圓寺」側面に「ほうろく地蔵」と書いた立派な石柱があった。「ほうろく地蔵」という変わった名前が気になったが、持参したガイドマップには特別の説明はなく、また、今日の行程20キロ余の4分の1しか来ておらず、道草も食っていられないので、そのまま通り過ぎた。帰宅後ネットで調べたら、ほうろくというのは素焼きの底の浅い鍋で、このお地蔵様はほうろくを頭にかぶっているとのこと。火刑に処せられた八百屋お七の供養のために建てられ、お七の罪業を救うために、熱したほうろくを頭にかぶり焦熱を自ら引き受けたお地蔵さんとのこと。 お七に関する私の知識は、若い頃宴席でよく耳にした「ところは駒込吉祥寺、八百屋お七の物語」で始まる春歌の中身を出ない。前年の火災で焼け出された際に、避難したお寺の若い男、吉さんと恋仲になり、再建された家に帰って後も恋しさが募る一方のお七。吉さんと会うためにはもう一度火事が起こればいいと考え、「一把のわらに火をつけてぽんと放った」ために、江戸のたくさんの家が焼かれた、と思っていた。だから、「目元ぱっちり色白で、髪はカラスの濡れ羽色」のいい女であっても、そんな重罪人のために供養地蔵を建てるというのが理解できなかった。今回調べてみて、お七の放火はボヤで済んだことがわかった。一途な恋を哀れとは思っても、お七を憎いと思う人はいなかったのだろう。ほうろく地蔵はお七没後40年もしないうちに建てられている。 ボヤとはいえ、火事は江戸市民の大敵、放火は死罪。当時も少年法に相当するものがあり、数えで15才以下は死罪を免れる。不憫に思った奉行はお七に15才ではないかと年齢を確かめるが、お七は16才だと答える。お七の生年を明らかにするものは残っていないようだ。処刑されたのが天和3年、1683年。それから逆算すると、1668年が生年になる。2年前の1666年は干支でいえば丙午。それで、お七も丙午生まれだという伝説が生まれたようだ。 十干の丙(ひのえ)は火を表し、十二支の午も火性を表し、丙午に生まれた女性は、気性が強く夫を食ってしまうという古くからの言い伝えは、お七の生年が丙午に結びつけられた江戸中期以降には一段と広まったとのこと。ちょうど300年後の1966年、昭和41年も丙午。その迷信がいかに根強く残っているかは、年齢別に人口を表示したグラフで、昭和41年生まれの人口がぽこんと凹んでいることに明瞭に示されている。人々が丙午の出産を避けたのだ。 1月14日、大圓寺と、すぐ近くの圓乗寺を訪れた。圓乗寺はお七が避難した寺でその墓がある。左右に大きな供養塔の建つお七の墓石は、供えられた花で、隠れるほどであった。ほうろく地蔵も色とりどりの千羽鶴に囲まれていた。 墓前に手を合わせながら、私は心のどこかで、恋に生き、恋の業火に殉じた早熟な少女への羨望を感じていた。 余談 お七の墓に詣でお賽銭をあげた足で、都内某所の雀荘に向かった。 立ち上がりから快調であった。しばらくして気が付いたのだが、ペン7とか、カン7の牌が順調に入ってきて手作りが進んだ。私はお七の墓に詣でた功徳があるのかなと冗談半分に思った。それからしばらくして、7ピンがアンコの手でリーチをかけてツモあがりした。裏ドラを開いてみたら、7ピンが裏ドラで、ハネ満のあがりだった。ここにいたり、功徳は本物だと思った。以後、特に7がらみのあがりはなかったが、好調を維持し終わってみれば一人勝ちだった。 墓に詣でることは、どんな場合でも善行だ。善行を施したという満足感が、勝負における心のゆとりとなり、大きく勝つことができたのだろう。 中央がお七の墓石 ほうろく地蔵尊 |
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