2008年12月 課題:決断

捨てられない、片づけられない
                             
 先月のエッセイ教室で、飯塚さんが夫の書斎に新聞、本、パンフレットなどが足の踏み場もないほど積み重なっていることを嘆く作品を書いてきた。飯塚さんの夫は私と同年配。仲むつまじい夫妻であるが、ため込むばかりで、片づけない夫によほど腹をすえかねたのだろう、飯塚さんは作品の最後を「家族にとって書斎とは紙くずを溜める部屋である」と、痛烈な言葉で結んだ。私は自分が叱られているような気がした。ところが、講師の下重暁子さんは講評で、自分の書斎も同じようなものであるといい、さらに「たまるというのは生きている証拠」「紙くずの中から探すというのが快楽」と言い切った。

 私は心中で「言ってくれた」と叫んだ。

 私の書斎は四畳半。そこに本棚が2つ、机が卓と椅子が2脚。机の一つは子供が中学生の頃まで使っていた勉強机だ。その上にパソコンのディスプレイ、キーボード、プリンターがおいてあり、家にいるときはほとんどの時間をその前で過ごす。もう一つの机は、積み上げた書籍、郵便物、書類、パンフレットなどに占拠されていて、使えない。手紙や書類の記入はパソコン机のマウスパッドの狭いスペースを使って行っている。足下にはクリアファイルにはさんだ資料がラックに並べてあり、その上には街道歩きに使った2万5000分の1の地図や最近読んだ本が乗っていて、ファイルを取り出すのに一苦労する。机の下には理化学辞典や医学大辞典など分厚い辞典や辞書が横積みにされている。窓際のミニコンポのスピーカーの上にはラックに入り切らないCDが積み上げられている。そして本棚。私は読みたい本は購入するのを原則としているから、増える一方だ。文庫本や新書版は前後二重に収納してあるのだが満杯だ。

 私の書斎も紙くずを溜める部屋である。家人は何も言わないが、私の死後にこんなものを残されたら困るだろうと思う。思い切って捨ててしまえばいいことはわかっている。しかし、読んだ本や、翻訳や辞典の執筆・編集のために集めた資料などは、これから先も何かの役に立ちそうな気がする。何よりもそれらは私の精神の活動の軌跡であり、「生きている証拠」である。今の私にはまだ、それらを処分してしまう決断は下せない。

 あれでよく必要な書類が探し出せるものだ、せめてきちんと整理したらいいのにと、私の書斎を見た人なら思うだろう。しかし、雑多に積まれた書類とはいっても、捨てていないのだから探せば必要な書類は必ず出てくる。そして、その時は下重さんの言う「紙くずの中から探す快楽」を味わうことになる。整頓しないのは、整頓作業が後ろ向きの行為に思えるからだ。そんな時間があったら、まだ読んでいない本を読みたいと思う。さらに、部屋をきれいに整頓し、机の上も片づけるなどと、慣れないことをやると、ポックリ逝ってしまうのではないかという思いが私には昔からある。「机の上をきれいにしたりして、何か虫の知らせでもあったのでしょうかね」と家人が、私の通夜の席で、会葬者に語っているシーンまで目に浮かぶ。

 そんな妄想を口実にして、本格的な整理整頓は、といっても縦のものを横にする程度だが、今年も暮れだけしか行わない。

             2008-12-17 up
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