2008年7月 課題:電話

持たない理由

  
 電車の中で人々が胸の前に捧げ持つ携帯電話を見ると、私はいつも平安時代の公家が手にしていた笏(しゃく)を連想する。日本人の公家化はどんどん進み、ついに携帯電話登録数は1億に達したという。日本人6人のうち、携帯を持っていないのは1人だけということだ。私はその1人に入る。

 10年以上前に、一度だけ携帯電話を持ったことがある。当時勤務していた第2の職場が、新規事業として携帯電話の販売代理店業務に参入した。そのキャンペーンに応じてPHS端末を持った。月の契約台数がある一定の数を越えると、電話会社から来るバックマージンの率がぐっとよくなるので、その達成のために契約した。端末は無料で、その代わり3ヶ月間は契約を解除できないという条件だった。3ヶ月後に契約を解除し端末を返した。その間にこちらから掛けたのは3回、かかってきたことは1回もなかった。家族ですらろくに番号を知らなかったのだから当然だ。

 携帯電話、今ではケータイということが多いが、あれば便利だろう。しかし、なくても別段の不便はない。元々私は電話を掛けない。旅先から家に電話したこともない。第2の職場は福岡県田川市に本拠があり、私は月に1週間はそこに出張した。8年の間に田川に滞在した延べ日数は500日にはなるだろう。その間、田川から横浜の自宅に電話したのは、5回あるかどうかだ。連絡のないのは無事な証拠というのが私の基本的な考えだ。職場で帰り際に飲み会やマージャンに誘われて、帰宅が遅くなる場合でも、家に電話はしない。たとえ料金はわずかであろうと、同僚の前で会社の電話を私用に使うことには気が引けた。かといって公衆電話に行って掛けるほどのことでもない、というのも電話しない理由だった。家人も遅くまで私の帰宅を待って起きていたりはしない。時間が来ればサッサと寝てしまう。

 私が持ったケータイ端末は、電話機能しかなかった。当時に比べて、今の端末は想像できないほど、多様な機能をもっている。ケータイの機能の中で特に魅力を感じるのは、文字の入力編集機能とカメラだ。私と同じエッセイ教室で学ぶある女性は、入浴中にケータイに作品を打ち込むと言って、私を大変驚かせた。どこでも文字を書き込めるデジタル化されたメモ帳として役立ちそうだ。そう言えば笏の起源も備忘のための文字を書くものであったとのこと。カメラによる画像情報は物を書く上でメモ帳以上に役立ちそうだ。

 それでもケータイを持たない。

 少し前、かつての職場仲間で小さな旅を楽しんだ。集まったのは自適生活を楽しむ同年配の男女十数人。たまたま、ケータイの話になり、持っていないのは私だけであることが判明した。私は「持っていないし、持つ気もない」と皆に言ったが、今思うと、胸を張ってそう言った。どうやら、今の世の流れに逆らう少数派に属することに快感、あるいは誇りを感じているようだ。それがケータイを持たない大きな理由のようだ。

 そんな誇りなど、裏返しのエリート意識ではないか、と言われれば、その通りだが…。

            2008-07-16  up

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