小学校4年までを過ごした疎開先の豊橋市の母の実家には、北西の角に小さな庭があった。東を母屋、南を蔵、北を生け垣、西をケヤキに囲まれ、日当たりの悪い、じめじめしたその庭に、アジサイは植えられていた。 同じ頃の記憶にはアジサイの他に松葉ボタンとツバキがある。松葉ボタンは茎をちぎっては地面に差した。強靱な植物で、差した茎がそのまま活着するのが面白かった。ツバキは花弁を割っては底にわずかにたまった蜜をすすった。甘酸っぱさが口に広がった。この二つの花が記憶に残っている背景にはこうしたエピソードがある。 アジサイにはエピソードは何もない。にもかかわらず、アジサイは鮮明に記憶に残っている。私のイメージにある少年時代のアジサイは、淡い青紫色だ。上品ではあるがどこか淋しげなその色に惹きつけられた。アジサイは私が最初に好きになった花だ。 将来への夢と、それの裏返しである不安の入り混じった20代、私はアジサイを自己分析と結びつけていた。 一つにはアジサイの花言葉が「移り気」であると知ったからだ。何ごとにも深く集中せず、次から次へと興の向くままに手を染めていく私の性格を、色を変えていくアジサイは表しているのではと気になった。特に、女性に対する態度がそうであると思われたらまずいと思った。 もう一つは、紫色好きは欲求不満の表れだと聞いたこと。アジサイの青紫色にもそれがあてはまると感じた。少年の頃、心の深層に何らかの欲求不満をかかえていたのではないか。それはその後の人格形成に暗い影を落としているのではないかと気に掛かった。欲求不満とまではいかなくても、赤やオレンジ、黄色などの明るい華やかな色と違って、冷たく、悲しみをたたえたアジサイの色は、子供が惹かれるにはふさわしい色ではない。それは私の性格の暗さ、冷たさ、孤独、引っ込み思案を暗示するのではないかと思った。 70歳を目前にした今、こうした懸念はどこにも残っていない。自身の性格の嫌な部分も、裏返せば長所になる。「移り気」のために、人生で多様な経験を積むことが出来た。暗さ、冷たさ、引っ込み思案は、沈着、冷静、慎重さに通じ、お陰で他人に迷惑を掛けることもなく、無難に人生を終わることが出来そうだ。 今年も我が家の庭のアジサイが、薄緑から青、赤紫へと見事な色の移ろいを見せる季節となった。6月7日、梅雨の晴れ間の一日、相模原北公園のアジサイフェアに行ってみた。園内には200種類、1万本のアジサイが植えられているという。これだけの品種があるためか、全体としての開花は3〜4分程度。鉢植えのアジサイもあって、色も白、ピンク、薄緑、青、紫、形も手鞠形以外にも扁平なものなど、目を見はる多彩さに驚いた。 多彩な花色のなかでも、薄青紫色がアジサイには似合う。 |
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