2007年9月  課題:「地震」

東南海地震と三河地震

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 冬枯れた草に埋もれるように座り込んだ良秋の母は、揺れる家に向かってひたすら念仏を唱えた。私と良秋は、その後ろにうずくまり、揺れの通り過ぎるのを待った。私が当時の国民学校へ上がる前の年、昭和19年12月7日の昼過ぎのことである。東海中部地方を襲ったこの地震は東南海地震と呼ばれ、マグニチュード8.0というから史上最大規模の巨大地震だった。

 私は、愛知県渥美半島の太平洋に面した西七根村の母の実家に疎開していた。良秋は二歳下の近所の子であった。その日も良秋の家で遊んでいた。良秋は年の離れた末っ子であったから、兄や姉たちは学校に行っており、大人たちは野良仕事に出かけていて、家にいたのは私たちのほか良秋の母親だけだった。多分母親は私たちを連れて庭の隅まで走ったのだ。村の他の家と同様、家の南にある庭は100坪ほどの広さだったからそこなら安全であった。私には地震の始まりも、走って逃げた記憶もない。
 
 震源地は熊野灘。死者は1223人、家屋の全壊2万6000余り。この地震の情報には戦時中のことで、報道管制が敷かれた。中国に出征中の叔父のもとには、渥美半島が根本で切れたという噂が流れて来たという。母の実家も、良秋の家も倒壊することはなかったが、西七根でも住居の全壊が3戸あった。

 明けて昭和20年1月13日の夜中に、今度は三河地震が襲った。マグニチュードは6.8だが、震源が渥美湾の直下型だったから、これも大きく揺れたのだろう。死者は2252人。

 地震が夜中であったので、その夜は家に隣接する竹藪の中で一夜を過ごした記憶がある。あるいは、余震をおそれて、竹藪に板を敷き、その上に夜具を持ち込み数日寝たような気がする。
 
 6歳の誕生日をはさんで1ヶ月余りの間に起きた2つの大地震の記憶は、私の遡ることが出来る最も古い記憶に属する。

 この2つの記憶には恐怖感が伴っていない。地震の避難所を映すテレビ画面では、ぐったりとした大人とは対照的に、どこか浮き浮きとした子供の表情が映し出されることがある。竹藪での寝起きは、私にとっては初めてのキャンプ体験であり、避難所の子供と同じように非日常がもたらす高揚感を感じた。

 良秋の家の庭にうずくまった私はふるえていたに違いない。しかし、その記憶はない。今でも目に浮かぶのは私たちをかばうように座り込んだ良秋の母親の、日焼けして色あせた茶色の半纏の背中である。よみがえるのはその背中の与えた安心感であり、暖かみである。

 そして、「南無阿弥陀仏」。日頃からどんなに備えをしたところで、地震のような自然の猛威の被害をゼロにすることは出来ない。人間が自然を征服できるなどと思うのは思い上がりだ。土壇場で人に唯一出来ることといえばひたすら祈ることかも知れない。あの時の良秋の母の念仏には、圧倒的な自然の力に対する、畏敬の念が込められていたように思う。

           2007-09-29 up

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