2007年7月 課題:「お茶」 駿河の国に茶のかおり 「旅行けば駿河の国に茶のかおり」 広沢虎造の浪曲『次郎長伝』の出だしの部分だ。春のお彼岸前、旧東海道歩きの一環として、静岡市の西、岡部町から、藤枝、島田、金谷、掛川を通り袋井まで歩いた際、それを実感した。 藤枝の町には、お茶屋がたくさんあって、お茶の町の雰囲気がある。通り抜けるまでに、辺り一帯にお茶を炒る強いかおりが漂っているところが2ヶ所あった。さらに、藤枝と島田の間の街道でも、同じにおいが一面に漂っている所があった。若い頃に聞き覚えた虎造の「旅行けば…」を心の中でつぶやいた。 島田に入ると、町の中心に芭蕉の句碑が建っている。 するがぢや はなたち花も ちやのにほひ (駿河路や花橘も茶のにほい) 芭蕉が大井川の川止めにあい、島田に逗留している間に詠んだ句だ。虎造の「旅行けば…」はこの句を下敷きにしている。同じ虎造の『石松代参』の出だしは「秋葉路や花橘も茶のかおり」であり、これはもっと芭蕉の句に近い。 ネットで調べていたら、芭蕉の句の茶のにおいは、国文学者が考えているような新茶の香りではなく、焙じ茶の香りだとあった。当時はまだ今のような新茶を蒸し、揉みながら乾燥させる煎茶の製法が出来ておらす、生葉を直接炒る方法しかなかったとのこと。さらに調べてみると、お茶には秋冬番といって、秋冬に収穫するものもあるとのこと。こうした葉は焙じ茶の原料とするようだ。新茶の時期にはまだ早い、3月中旬になぜ茶の香りがしたのか不思議に思っていたが、これで解消した。街道に漂っていたあの強い香りなら、花橘のにおいも消してしまいそうだ。私がかいだ香りは芭蕉がかいだのと同じたぐいのものであったのだ。 その日は島田を過ぎ、1キロもある大井川の鉄橋を渡り、金谷まで歩く。 島田に泊まって翌日金谷から袋井を目指す。JR金谷駅背後の最近復元された石畳の坂を登り切ると、目の前に一面の茶畑が広がる。日本最大の茶産地、牧ノ原台地だ。50メートルはありそうな整然と刈られたかまぼこ型の茶の畝が、何十も並ぶ。一旦菊川の集落に下り、そこから小夜中山へは舗装された登り道だ。爽やかな朝の光の中、茶畑は左手の深い谷まで下りさらに向かいの山肌高く続く。茶の新芽もまだないこの時期、畑にも、道路にも人影はない。 小夜中山はきつい坂の難所として、特に京から下る旅人の感慨を誘ってきた。平安時代から多くの歌に詠まれてきたここも、今、目につくものはたくさんの歌碑と整然たる茶畑である。茶畑が出来たのは明治以降。西行も芭蕉もここを通ったときは、辺りは寂しい山道であったろう。今のように開けた明るい所であったなら、西行の有名な絶唱 年たけて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山 という感慨もあるいは生まれなかったかも知れない。 小夜中山を日坂に下る。最後は藪の中のつづら折りの急坂で、わずかに当時の難所が偲ばれた。日坂からは平坦な道をひたすら袋井へ。 袋井は京からも、江戸からも27番目の宿場。東海道歩きもやっと半分だ。 参考 芭蕉の句につては財団法人世界緑茶協会のサイトを参照のこと http://www.o-cha.net/japan/dictionary/japan/culture/culture18.html 西行の歌は、若い頃越えもう2度とは越えることはないだろうと思っていた小夜中山峠を、2度目に越えることになった時のもの。時に西行69才。源平争乱で焼け落ちた東大寺大仏殿の再建の勧進のため奥州藤原氏に向かう東下りであった。 牧ノ原台地の茶畑 霜害防止用のファンが林立する 小夜中山から日坂へ 右は茶畑、左の道端には歌碑が点在する 2007-07-18 up |
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