2007年5月 課題:「バラ」 『エミリーにバラを』 その作品を読んだことで、人生における儲けものをしたと思うことが時々ある。ウイリアム・フォークナーの「A Rose for Emily」(邦題『エミリーにバラを』)もそうした作品のひとつだ。 アメリカ短編小説の白眉とされるこの作品に出会ったのは、NHKラジオの原書で読む世界の名作という番組。15年ほど前、私は50歳を過ぎてはいたが、英語力のアップに力を注いでいた。たまたま『ニューズウイーク日本版』の翻訳者に採用されてしまい、毎日曜日、英文と苦闘していたからだ。週1回のラジオのこのシリーズは著名な作品を取り上げ、全文を読み、ポイントでは日本語訳もつけてくれたので、英語と英文学に親しむのに良い番組であった。 『エミリーにバラを』は六編の作品よりなるフォークナー短編集の中のひとつであった。『あの赤い夕陽』(That Evening Sun)など、他のすべての作品も南北戦争直後から1920年代頃のアメリカ南部を舞台とし、そこに生きる人々の苦悩や悲劇を描き、心を揺さぶられる。 『エミリーにバラを』は凄い。この小説の結末の4行からなるパラグラフの記述は凄絶で、読み終わったとき、戦慄と主人公の愛の深さに対する感動が全身を貫き、それは数日間心の中でこだましていた。ペンギンブックスでわずか12ページのこの小説に対し、従来から多くの研究者が取り組み、作品中の数々のエピソードに年月を当てはめる作業までしているとラジオは解説していた。 エミリーは南部の落ちぶれた旧家の娘。町の男など見下している父親のために30歳近くまで独身である。父親が亡くなって彼女は一人残されるが、孤高のうちに黒人の下僕とひっそりと暮らす。そんな時、町に道路工事の監督として北部からやってきた男性と親しくなる。結婚すると思われた二人であるが、男はエミリーを捨てる。やがて男も姿を消す。それから40年が経ち、エミリーは74歳で亡くなる。最後の10年間は彼女の家に入った人はいない。エミリーが亡くなって人々が家に入り、2階の40年間他人を寄せつけなかった部屋をこじ開けたとき、ほこりの中に人々が見たものは………。 完璧に構成されたミステリーである。猟奇的作品であるが、その猟奇性に必然性がある。後半のひとつひとつのエピソードはすべて最後のトリックへと収斂していく。見事というほかない。さらに驚くのは作品中の何気ない言葉が抜き差しならぬ意味を持って配置されていること。例えば、エミリーの髪の毛色が「iron-gray」(鉄灰色)であること、あるいは彼女が買った「man's toilet set in silver」(銀製の男性化粧道具)などという言葉には計算しつくされた深い意味がある。それだけに読み手としては細心の注意をもって、一字一句をおろそかにすることなく読み進めなければならない。作者と読み手の間の格闘という読書の真の醍醐味を味あわせてくれる作品だ。 本書にはバラは出てこない。薄幸な一女性にせめてバラでも贈りたいという意味でこの題をつけたとフォークナーはいっている。 私もエミリーにバラを贈ろう。 参考 「William Faulkner Selected Stories」 Special NHK Edition, Penguin Books 「フォークナー短編集」 龍口直太郎 訳、 新潮文庫 2007-05-20 up |
エッセイ目次へ |