2007年3月   課題:「気配」

ランの勘
                            
 正月明け早々、飼い猫のランが左後ろ足を引きずっていた。行きつけの近くの獣医に連れて行く。目に見える外傷はなかったが念のため血液検査をした。結果は異常なしで、交通事故にあった徴候もなかった。獣医が左腿の外側の毛をバリカンで刈った。現れたピンク色の表皮に、いくつか小さな傷跡があった。噛まれているという。化膿止めに粉末の抗生物質を出してくれた。

 4日後、ランの左腿が腫れてきた。傷が化膿して皮膚に1円玉ほどの穴が開いていた。深くえぐられてあたかも富士山の火口のようだ。噛まれた傷の一つが古いものだったので、抗生物質投与が間に合わなかったのだと獣医はいう。後ほど化膿した組織と膿を除去するというのでランを置いて私は帰った。処置が終わって帰ってきたランは元気にしていた。絆創膏も貼らず、赤くじゅくじゅくした傷口がのぞいている。ネコはこれで平気なのだ。

 ランは雌の三毛。鼻の真ん中から左半分が黒で右半分が茶という派手な顔立ち。胸前からお腹の白は触るとふわふわと気持ちよく、後ろ足は腿まで白いハイソックスが見事だ。買い物帰りの路上で、目の前を通り過ぎた車の下から現れたランを見かねて拾ってきたのは妻である。2年半前のことだ。200グラムしかなかった体重が今は4500グラムにもなった。弱いくせにのこのこ外に出て行く。最近引っ越してきた前のアパートの飼い猫と縄張り争いをしているようで、今回もおそらくそのネコに噛まれたのだ。額を引っかかれたというならまだしも、後ろ腿を噛まれたというのでは情けない話だ。

 獣医行きは私の担当。傷口がふさがるまでは3日おきに獣医に連れて行った。

 バスケット型のキャリーに入れて連れて行くのだが、ランはキャリーに閉じこめられるのが嫌いだ。キャリーに入っている時間を少しでも短くしてやろうと思い、その日はコートを着てからランをキャリーに入れることにした。ランは私の書斎の椅子の上で寝ていた。コートを着終わった時、たまたまランが目を覚ました。私の姿を見ると椅子から飛び降り逃げ出して二階へ走った。こんなことは初めてのことだ。コート姿の私に、私がこれから何をしようとしているのかピンと来たのだ。常々勘の鋭いネコだと思っていたが、あらためて驚嘆した。二階のふだんは使っていない奥の部屋から声がした。鳴き声をたどると、押入の一番端、茶箱と壁の間のわずかなすき間にうずくまっていた。出てくる気配はなかった。引っ張り出すのは酷だからやめて待っていたが出てこない。あきらめて、階下におり、コートを脱いで待った。

 しばらくすると下りてきた。今度は逃げ出さなかった。キャリーに入れる際、必死に抵抗して、爪を立て、鳴き叫んで一苦労だった。

 ランは診療台の上ではいつも借りてきたネコで、ウンともスンとも言わずおとなしくして、痛みなど感じないのだと思っていたが、傷口を洗われたりするのはやはり相当痛かったのだ。その日治療が終わるとランは自分からキャリーに入っていった。入れるのにあんなに苦労したのが嘘のようだ。
「これで帰れるぐらいのことはネコでもわかるのだ」と獣医はいう。

 勝負事の中でも麻雀は特に動物的勘がものをいう。雀卓を囲みながら、ランのような鋭い勘で勝負の気配を読み取れたらと思うことはよくある。

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