2006年8月 課題 「先祖・祖先」

海の見える墓地

                             
 愛知県豊橋市西七根町聴松寺に隣接する墓地は、私の最も心休まる場所である。町一番の高台にあり、南には太平洋の水平線が望まれる。私の4人の祖父母はここに眠る。

 墓地は南向きで、中央に南北に走る通路がある。墓地の真ん中あたり、その通路の西側に母方の祖父母が、通路の東側の一つおいた区画に父方の祖父母が眠っている。父の家と母の家は本家と分家の関係にあり、姓も同じ高橋、家も隣同士にあった。戦争末期から戦後にかけての5年あまりを私達一家は母の実家に疎開していた。豊かな自然と心を通わせて過ごした、幼児期から少年期にかけてのその5年余は、私にとっては生涯の楽園である。戦争末期に相次いで亡くなった2人の祖父、その8、9年後やはり相次いで亡くなった2人の祖母。私は4人の祖父母を鮮明に記憶のなかにとどめることが出来た。墓に手を合わせるとき、私は祖父母の手に抱かれたような安堵感で満たされる。ここに私のルーツがある。この人達が私を生み、この土地が私を育んだのだ。 

 父の家の墓の東側は高い生け垣に囲まれた区画で中は見えない。子供の頃から何があるのだろうかと気にはなっていたが、人に聞いたことはなかった。そこも墓所であると知ったのはつい10年ほど前のこと。父方の祖父の50回忌に墓参にいった折、父の実家の当主である従兄弟から聞いたのだ。生け垣で囲まれた区画は2つあり、東側から高橋家の一番の本家、ついでその分家である。高橋家は西七根の名門で、この2家は名主や代官を務めた家だ。その次に分家したのが父の実家の先祖である。やはり名主を務めた名家であったが、墓所を作る際、生け垣で囲んだりするのは暑苦しいからといって囲わなかった。それで他の家が敷地内に入ってきてしまい、今のように町全体の墓所になってしまった、本来ならこの墓地は全部我が家のものなのにと従兄弟はいう。

 囲いの中はさらにさかのぼった私の先祖の墓であったのだ。初めて入ってみた大本の高橋家の墓は、横5メートル、奥行き1メートルほどの父や母の実家の墓所と比べて、数十倍の広さだ。墓石も横にずらりと20基ほど並べられていた。その広さに江戸時代の名主の権威の大きさ知ると同時に、それをあっさり放棄し、村の人々に自分の墓所を解放してしまった父の実家の先祖の気前の良さをすがすがしく思った。この墓所より西へ、分家した順に高橋家の墓所が5つ並ぶ。一番西端が母の実家の墓所だ。5家は今も当地に在住している。

 四男であった父は、遠縁で、跡取りのなかった金子家の養子になった。母が亡くなったとき、父は東京の自宅のすぐ近くの寺に墓を作った。金子家代々の墓は豊橋市東田の全久院という寺にあり、永代供養してあると知ったのは、父が亡くなった後のことだ。生前父はそのことをまったく口にせず、お参りに行ったこともなかった。金子の姓だけ引き継ぎ、財産も位牌ももらわなかった父は、自分が新しい金子家の祖になる気でいたようだ。私もそれでいいと思う。

 全久院も一度は訪れたいが、私にとって父母との対話の場所は東京の金子家の墓、祖父母や遠い先祖との対話は西七根の海の見える高橋一族の墓である。

追記
 最近知ったGoogle Earthというサイトは、全世界の衛星写真が見られるすごいものだ。それで西七根町を見ると、父母の実家はもちろん、父母の実家の墓もはっきりと区画を認識できる。こうして上空から見ると、高橋家の生け垣で囲まれた2家の墓所を合わせたものは、この墓地全体のほぼ4分の1を占めていることがわかる。
                                2006/08/30 up

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