2026年4月 課題:花見
花見考
天平2年正月13日(730年2月8日)、太宰府長官大伴旅人の邸宅で梅見の宴が模様された。その時詠まれた32首の短歌と前書きが万葉集第5巻にある。前書きには以下の文(漢文の読み下し)がある。
時に初春の令(よ)き月、気淑(よ)く風和(なご)み、梅は鏡の前の粉を披(ひら)き、……。元号令和はここからとられたとされる。
前書きに続く32首はすべて梅が詠まれ、「梅」の字がすべてに入っている。
それから約300年後に書かれた『源氏物語』にも花の宴が描かれる。
「きさらぎの二十日あまり、南殿の桜の宴せさせ給ふ」で始まる第8帖「花宴」だ。
この時代にはすでに梅よりも桜が愛でられるようになっていた。紫宸殿の左近の桜を愛でる宴で、桐壺帝を中央に左右に妃、東宮などが殿上に。その他親王、上達部など大勢が参列する。光源氏を初め貴族たちが歌を詠み、舞を舞う様子を紫式部は述べる。しかし、桜への言及はまったくない。
夜も更けて宴も終わり人びとも去って行く。ほろ酔い機嫌の源氏は、愛しい藤壺中宮に逢えるのではと思い、藤壺の辺りを伺い歩く。そして「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながらやってくる若い姫君を見つけ、強引に契りを結ぶ。朧月夜の君は源氏の政敵右大臣の娘で、その後宮廷に上がり、源氏の兄朱雀帝の寵姫となる。源氏は朧月夜の君が忘れられず、彼女が里帰りした際密かに会い、その現場が露見してしまう。こうなればただではすまない。源氏は須磨へ流される。花の宴に源氏の運命を変えた一夜をもってきたところに、紫式部のドラマ作りすごさがある。
源氏たちの見た桜は左近の桜一本であり、太宰府の大伴旅人らの愛でた梅も数本であろう。紫式部からさらに600年ほど経って、700本もの桜を植えさせて花見をした男がいる。太閤秀吉だ。
慶長3年(1598年)4月20日、秀吉は京都の醍醐寺三宝院裏の山麓で花見の宴を催した。そのために吉野山から700本もの桜を移植した。招かれたのは北政所を筆頭に淀君らの近親者を初めとし、諸大名配下の女房・女中衆の1300人。男は秀吉、秀頼そして前田利家の3名のみ。他の大名は警護役にまわされた。
ぱっと咲きぱっと散る桜。今度見られるのは1年先。若いときはそれほどにも思わないが、歳を重ねるにつれて、人の桜に寄せる思は強くなる。秀吉も自らの衰えを感じて花見に執着したのだろう。5ヶ月後に秀吉は亡くなる。
江戸時代の後期になると、庶民がひと日を花の下で楽しむ習慣が一般化したという。
落語「長屋の花見」は上の3例の花見とは対極にある。店子の多くが店賃も払っていないという貧乏長屋。貧乏長屋という世間の評判を吹き飛ばそうと、大家が店子を連れて上野に花見に行く。大家が用意したのは番茶を酒、たくあんを卵焼き、大根を蒲鉾に見立てたものだ。店子が散々文句を言うが、その面白さがこの落語の聞き所。
最後は湯飲みをのぞいていた男が、長屋には近々良いことが起こるという。そんなことが分かるか問う大家に「酒柱が立ちました」。
今年の3月29日、代々木公園に行って見た。外国人を含む大勢が切れ目なくやってくるのに驚いた。鳴り物やパフォーマンスもなく、人々は静かに満開の花を楽しんでいた。ブルーシートが陽を照り返していて、目映かった。
補足:
「花宴」についてはエッセイ「朧月夜」を参照。
京都御苑に現在ある左近のさくらは、1998年植栽の、ヤマザクラの特徴とオオシマザクラの特徴を併せ持つ系統。
2026-04-21 UP
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