2025年1月 課題:ダウンジャケット

 山上ケ岳の一夜
                              
「私のダウンジャケットはどこかにある」と聞いてみた。

「ないわよ。体にピッタリとこないからと言うので捨ててしまった」と妻。

 ダウンジャケットが若者を中心として日本で流行ったのは1990年代だという。保温性がよく、軽いので冬のアウトドア用であったものが、町中でも若い人が着ているのが目につくようになった。もともと真冬でもズポン下は履かず、アンダーシャツも半袖で通している薄着の私には、ダウンジャケットでふくら雀のように膨らんで町を歩く若者の姿は強く言えばダサいものに見えた。そんな私がダウンジャケットを買ったのは、街道歩きを始めたからだと思う。

 ダウンジャケットの印象はないに等しいものだが、似たような作りのシュラフには強烈な思い出がある。

 シュラフ、寝袋も布の間に詰め物する。今はダウンの入ったものもあるようだが、私が手に入れた70年近く前のシュラフは鳥の羽根を詰め物にしていた。当時はまだ普及していなかったか、あるいは高価であったのか、手に入れたのは駐留米軍放出の中古品であった。登山やキャンプに携行した。軽くて暖かい。

 就職して一年目、大阪の工場で現場実習を終え、62年の4月に東京の研究所へ転勤になった。新しい任地には10日後に行けばよかったので、その期間を利用して大峰山を北から南へ縦走、いわゆる大峰山奥駆けをしようとした。

 4月4日、同僚と二人で電車、バスを乗り継ぎ登山口の洞川へ。驚いたことに雪が降っていた。3時間半で山上ケ岳山頂へ。雪は止んでいたが気温はぐんぐん下がってきた。

 山上ケ岳、標高1719メートル。山頂には大峰山寺があり、藤原道長も参詣し、納経した。一帯は修験者の聖地として平安時代初期より現在に至るまで女人禁制である。前年の9月に登った時に泊まった宿坊はまだ閉ざされたままだった。宿坊の前の粗末な無人小屋に泊まった。私たちの他に2パーティ4人も一緒だった。火の気のない、床張りの小屋のその夜の寒さは異常だった。

 こぼれた水が凍りつくような床にビニールを敷き、その上にシュラフを延べる。早々と夕食を済ませ6時にはシュラフに潜り込んだ。しかし、シュラフを通して床の冷えが背中や足腰にしみ込んでくる。もってきた下着やセーター、ジャンパーを総動員し重ね着しても朝方の冷え込みにはどうすることも出来なかった。結局11時間ほどシュラフにくるまっていたが、眠れたのは3時間ばかりで、後は震えていた。山の恐ろしさをひしひしと感じた。

 シュラフもダウンジャケットも中に詰められた羽根や羽毛が保持する空間が断熱効果を発揮するので暖かい。シュラフの場合、その空間が身体と床の間で押しつぶされるので、断熱効果がなくなるのだ。エアマットのようなものが必要だと痛感した。

 翌日は雲一つない好天。深い雪の尾根道を時にはラッセルしながら進む。精根尽き果てて倒れ込むように弥山小屋に着く。ここも無人だが、宿泊客が多く、囲炉裏に火まであった。

 囲炉裏の傍でよく眠れて元気を回復した翌朝だったが、ガスがかかって風も強かったので、前鬼への縦走はあきらめて天川村へ下った。


補足

 今でも山上ヶ岳の宿坊は大峯山寺が閉ざされる9月末から4月一杯は閉ざされている。
 弥山小屋は1990年、現天皇が皇太子時代に宿泊し、その際新装された。定員200名。
 
後日談
 下山したが、紀伊半島縦断は続行したかったので、その日は大和下市に一泊し、次の日奈良発新宮行きの特急バスに乗り込む。6時間バスに揺られて土場と言うところで下車。北山川に沿って南へ歩いていけば瀞八丁に着けるだろうと歩き出した。6時頃七色のダム建設現場にたどり着き、付近の農家に頼んで泊めてもらった。老夫婦二人の家だったが親切にしていただき、畳の上に延べたシュラフだからよく眠れた。
 翌日も5時間近く歩きようやく上瀞のプロペラ船発着所に着いた。プロペラ船、バスと乗り継ぎ新宮に出て、夜行で東京の実家まで帰った。


 
2025-01-22 up


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