2006年2月   課題 「鬼」

初代若乃花と朝青龍
 
 
大相撲が面白い。というとけげんな顔をされる。若貴が引退し日本人力士が活躍しない今の相撲のどこが面白いのだというわけだ。初場所は栃東が朝青龍の8連覇を阻んだ。そのことを「今年になってやっと明るいニュースがあった」と言った友人もいる。外国人力士、特に朝青龍が気に入らないようだ。

 私は逆に朝青龍の相撲にたまらない魅力を感じる。あのスピードと切れ味鋭い多彩な技は胸がすく。そして勝負にかける執念。朝青龍を私が若いころ心酔した初代若乃花に重ね合わせてしまう。

 若乃花が活躍したのは昭和30年代の前半。小さな体で、豪快な大業を繰り出す相撲振りに私はすっかり魅せられた。小柄だから当然大型力士には押されて土俵につまる。土俵に足がかかってからが若乃花の真骨頂だった。強靱な足腰に支えられ、そこから投げ技や引き技を繰り出し、相手を土俵にはわせる。といっても当時まだ家にはテレビがなく、街頭テレビで見る以外は、ラジオ放送で聞きながら土俵の動きを想像していた。

「異能力士」と呼ばれたその相撲もさることながら、若乃花をヒーローにしたのは彼にまつわるエピソードである。北海道で沖仲士をして一家を支えた経験があの強靱な足腰を作ったというのもそうだが、彼を国民的ヒーローに押し上げたのは昭和31年9月場所である。横綱昇進をかけた場所の直前、若乃花は幼い長男がちゃんこ鍋に落ちて火傷で亡くなるという悲劇に見舞われた。長男の名を記した数珠をさげて場所入りした若乃花は、愛児の死という衝撃を勝負への執念に転化したかのように12日まで全勝で進んだ。高校3年生だった私は心を熱くして毎日彼を応援した。しかし、心身とも疲労していた若乃花は扁桃腺炎を発症し、高熱のために残りの3日間は土俵に立つことができなかった。

 この場所で、若乃花に「土俵の鬼」の異名がつく。昭和33年1月場所で優勝し45代横綱となり、栃錦と共に戦後相撲の黄金期「栃若時代」を築く。

 若乃花の得意技の一つにひねり技があった。31年の初場所、優勝を争っていた若乃花が吉葉山戦でひねり技を出した。吉葉山は横向きに土俵に落ちたが、相手を呼び込んでいた若乃花も背中から落ちた。軍配は吉葉山に上がった。物言いもつかなかった。翌日の朝刊には勝負の瞬間の写真が載っていた。吉葉山の方が早く土俵に落ちていた。この判定ミスにより若乃花は優勝を逸した。私はその写真を切り抜きいておいて、日替わりの記入当番が回ってきたとき、高校のホームルーム日誌に貼り付け、判定に対する怒りを激しく書き込んだ。

 数々見せる朝青龍の勝負への執念の中でも、白眉は一昨年名古屋場所の対琴の若戦。投げの打ち合いから横綱が下になって落ちていった。しかし、朝青龍は両まわしをつかんだまま土俵上数センチのところで留まり、ひねり技を見せた。そして琴の若が手を着いた。背筋が寒くなる程の朝青龍の執念と身体能力だった。軍配は琴の若に上がったが物言いがつき、ビデオを参考に取り直しとなった。

 若乃花や朝青龍の持つ「鬼」の部分は私がどうもがいても手の届かない遠い存在である。だからこそ二人に強く引かれる。


教室で

 折からトリノオリンピックが終わったところで、日本は荒川静香の金メダル1個という惨敗に終わった。

 私の作品へのコメントの中で下重さんは、メダルを取れなかった日本選手の何人もが口にした「オリンピックを楽しんだ」「オリンピックを楽しみに来ました」という言葉をこき下ろした。オリンピックを甘く見てなめている、あれじゃダメだ、メダルは取れない、鬼にならなきゃ、鬼が必要だ、と下重さんはまくし立てた。

 荒川静香もオリンピックを楽しみたいと口にしていた。彼女の場合は金を手にしたから「楽しく滑りたい」というのが賞賛されこそすれ、非難はされない。勝負事は結果が全てというわけだ。
 とはいえ、恐らくほとんどの日本人が下重さんと同じ思いだろう。

 東京オリンピックで猛練習で選手をしごき抜き、金メダルに輝いた女子バレーの大松監督は「鬼の大松」と呼ばれた。
                         2006-03-01 UP

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