2024年9月 課題:橋
大井川を渡る
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と言われたように、大井川は東海道の最大の難所である。平安時代の中期頃までは、京と関東をむすぶ道は、滋賀、岐阜、長野、群馬を経由する東山道が主流であった。東海道には、揖斐川、木曽川、天竜川、大井川、富士川、相模川、多摩川など大きな河川が多く、いずれも河口に近い川幅の広いところを渡河する必要あったからだ。
川は陸上交通の大きな障害であり、逆に言えば橋は交通の要だ。ウクライナがロシア本土とクリミアを結ぶ橋を攻撃したように、橋の争奪が戦いの帰趨を決しかねない。用心深い徳川家康と幕府もそのことは十分理解していた。だから、大井川を江戸城の西の外堀として、橋も架けず、渡し場も設置せず、人馬のみで渡らせることにしたのだ。
大名・庶民を問わず、大井川を渡河する際には川札を買い、馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。元禄年間に幕府は川の両側に川会所を設け、川庄屋を置いた。川会所は島田と金谷に設置され、川越賃銭や渡河の順番の割り振りの運営にあたった。島田側には格子戸付きの家が並ぶ川越宿が再現されている。さらに川越人夫は島田に350人、金谷に350人が常時いた。私は悪名高き「雲助」というのは主にここの人足を言うのだと思っていたが、大間違いだった。彼らは幕府直参の下級官吏であって、「雲助」とは全く違うものだった。度々の請願があったにもかかわらず、大井川に渡し舟が置かれなかったのは、川会所や人足の強い反対があったことも一因だという。既得権はいつの世も強い。
面白いのは、その時の水深によって人足料金が違うこと。瀬踏みといって渡る前に川越人足が川に入って水深を測る。股下が最も安く、肩までの水位が最も高い。人足の肩を越える水深1.5メートルとなると川止めになった。
将軍家茂は文久3年(1863年)に上洛したが、大井川は大勢の人足の担ぐ輿に乗って渡った。当時の錦絵には流されないように互いに肩をしっかりと組み合った人足が輿の周りに描かれている。
5年後、明治天皇の東行の際は大井川には仮橋が架けられた。
天皇が多摩川を渡る際には23艘の船を横に並べてその上に板を敷き渡った。多摩川には1600年に六郷橋が架けられ、その後何回も架け替えられたが、1688年(貞享5年)に洪水で流された後は再建されなかった。渡御の様子は鮮やかな錦絵として残っている。先頭の錦の御旗に続き銃を担いだ兵の列、随伴の公家と続き、さらに小さな二つの輿、そして大人数で担ぐ明治天皇が乗る鳳輦と続く。
東海道歩きで、私は川会所の少し上流に架かる国道一号線の橋で大井川を渡った。車道と歩道がしっかりと分離されて歩きやすい橋だったが、1024メートル、12分かかった。五街道歩きの中でも最も長い橋だった。上流から運ばれた砂利が堆積し、河原が広いのが橋が長い原因だ。川そのものは2筋に別れていて、橋の上からみると、広い河原を流れる小川のように見える。明治天皇の渡御の際、仮橋を架けたというが、それほど困難ではなかったのだろう。
大井川には明治12年(1879年)旧東海道よりかなり下流に逢来橋が架けられた。この橋は「世界一長い木造歩道橋」としてギネスブックに認定されている。
2024-09-24 up
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